見えれば見えるほど、自覚される、そのオソロシサ、ゆえの、その不思議。
うちに洗面台があって、白くて四角い。
朝、そこで顔を洗って、歯を磨いて、調髪して、それから、洗面台をながめる。
髪の毛が落ちてないかどうか、確認するのだ。
なんにも落ちてないよね、チェーック!
そして、洗面所をあとにする。
しばらくすると、洗面台が髪だらけだ!との指摘を家人から受ける。
え? まさか? そんな? 確認したはずなのに?
ベッドサイドへ眼鏡を取りに戻りに。。。
朝、洗面台に行くとき、眼鏡をかけずに行っていたのだ。
眼鏡をつけて、あらためて洗面台をながめる。。。
すると、あーら、不思議。なかったはずの髪の毛が、たーくさん。。。
どっから湧いてきたのよ、これ。
自分は視力が0.07という強度の近眼。
なので、裸眼で見ると、洗面台にはなにも落ちてないようにしか見えないのだ。
これはねー、クリスチャンになってからの内面的な経験に、すっごい似ている。
自分は罪なんか無いと思ってたのに、年数がたてばたつほど、スピリチュアルな眼鏡の強度がつよくなってきて、それまで見えなかった自分の罪に、ガンガン気づかされるようになってくる。
ほんと、罪人の自覚度って、クリスチャン年数の幾何級数倍なんじゃないの、と思うぐらいだ。。。
今日の聖書の言葉。
主の目は正しい者に注がれ、 主の耳は彼らの祈りに傾けられる。 主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。
ペトロの手紙一 3:12 新共同訳
だから、自分がささげる祈りなんかに、神が目を注ぎ、耳を傾けてくれるなんて到底思えない、だって、オレはこんなにも罪人なんだから。。。
。。。と落ち込むことが、ときどき、というか、しょっちゅう、ある。
でも、まあ、新約聖書の不思議なところは、逆転の神秘なんだよね。。。
神のひとり子であるイエス・キリストが、罪びとである自分の身代わりに十字架にかかって、死んでくれた。
この「十字架で死ぬ」ってことは、父なる神の願いだった。
そして、イエスは、父の願いに対して身をもって完全に従順したんだ。
その完全な従順のゆえに、父なる神の願いは完全に満足された。
その満足の「証し」が、イエスの復活だ。
父なる神は、死者のなかからイエスを復活させることによって、父なる神の願いが完全に満足されたことを、世界に示したんだ。
で、こっから先がほんとうに謎なんだけれど。。。
「主イエス・キリスト、神の子、救い主。罪人のわたしをあわれんでください!」という罪人の祈りをささげた者を、神はイエスのなかに合わせ数えてカウントしてくれる、というんだ。
どうしてそんな論理が成り立つのかというと。。。まあ、神がそうしたいからそうなる、としか言えないんだけど。。。
その結果、罪びとである自分はイエスのなかに数え入れられることになる。
で、イエスは父なる神の願いを完全に満足しているわけだから、そのイエスのなかに合算されている自分もまた、父なる神の願いを完全に満足していることになる。
なので、こんな罪人の自分が、イエスの名によって祈るとき、父なる神はその祈りをよろこんで聞いてくれる、というんだ。
そんなうまい話があるか、って?
うーん。。。まあ、自分でも、ときどき信じられなくなることがある。
自分の罪深さにおののくようなときは、特に、ね。
でも、新約聖書は、たしかにそのように言っているんだ。
そこで、証拠聖句を挙げておこう。
こういう証拠聖句がなかったら、絶対こんなこと、信じられないよね。
でも、確かにそう書いてあるんだ。
だから、自分はこの信じがたいことを今日も信じて、大胆に神に祈る。
イエスの名によって。
わたし(イエス)の名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
ヨハネによる福音書 14:13 新共同訳
わたし(イエス)の名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。
ヨハネによる福音書 14:14 新共同訳
はっきり言っておく。あなたがたがわたし(イエス)の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。
ヨハネによる福音書 16:23-24 新共同訳
わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。
ヨハネの手紙一 5:15 新共同訳
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