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正しい、と、信じていたのに。。。

自分は正しい、と信じて行動したのに、周囲から、誤りだ、と批判されることがある。自分と周囲の「違い」が浮上する瞬間だよね。

うすうす間違いを感じながら、うしろめたさ、罪悪感をおぼえながら、ためらいがちに出した、自分の言葉と行動。それが、周囲から反発を受けたら、そりゃ、そうだよね、ごめんなさい、テヘペロ。。。という感想になるんだけど。それは、あたりまえだ。

ところが、自分は正しいと信じて、なんら違和感や罪悪感もおぼえることなく、だから、なんの疑いもなく、すーっと出した、言葉と行動。それが、周囲から反対を受けると、これはねー。。。

意外で、衝撃的で、失望落胆。いや、それどころか、怒り、怒りをとおりこして殺意すら、感じるよねー。

自分の信じる正しさを、世界にあてはめたとき、世界は、必ずしもそれを正しいと認めてくれるとは、かぎりませんよ、ということ。カント的に言えば、おまえさんの格律は普遍化に失敗してるねー、だめじゃん、修正しろ、ということか(泣)

今日の聖書の言葉。

この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。
ヨシュア記 1:8 新共同訳

自分の信じる「正しい」が、隣人の信じる「正しい」と、いつも一致するか、というと、そうではない、という経験を、わたしたちは、いつもさせられている。

まるで、人間の数だけ、たくさんの違う「正しい」が、あるんじゃないか、とすら、思う。職場の紛糾する会議。乱闘寸前の国会。国を二分するデモとアンチの衝突。家族の中ですら、感じるよね。

古代ユダヤ人のコミュニティの場合、彼らには、神から示された「正しい」の基準として、律法があたえられていた。だから、コミュニティのメンバーみんなが、その「正しい」を、あたまからつまさきまで浸透させて、ちゃんと行動していれば、その結果として、すばらしい祝福と繁栄が、約束されていたんだ。格律と普遍の完全一致状態。理想だ。

ところが、ほんとうに人間は不思議だなー、と思うんだけど、律法に示された「正しい」の基準を、具体的な生活の現実に適用しようとしたときに、すごい、いろんな解釈の余地が、出てきてしまったんだ。

たとえば、安息日に労働してはいけない、と律法は言ってる。じゃあ、安息日にはいているズボンのポケットに、ハンカチが入ってたら、それは、ハンカチを運ぶという労働に、なるのか・ならないのか。。。この「難題」に解決をあたえるために要請されたのが、律法の解釈の専門家としてのラビたち、律法学者なんだ。

たくさんのラビたちが仕事をした結果、では、解釈について、統一見解が形成されたか、というと、そうはならず、なんと、ラビたちの数だけ、たくさんの解釈が存在する、みたいな状況になってしまったんだ。

その、ありとあらゆる解釈の違いと、その違いにいたる複雑な議論の過程を、可能な限り全部網羅しようとしたプロジェクトが、「タルムード」というユダヤ教の聖典だ。ある種、Twitter 超巨大まとめサイト、みたいな。。。

「正しい」をめぐる、いのちをかけた真剣な探求。その結果としての、目もくらむような、多様で多彩な「正しい」の一大カタログ。。。

なので、ユダヤ教では、こう考えられたそうだ。。。

やがて、世界の終わりの日、最高の律法の教師であるメシアが到来する。メシアは、ラビたちの「正しい」をめぐるすべての議論に対して、最終的な解決を示してくれるので、それを聞いたすべてのラビたちは、ほんとうに心から満足して、議論が完全に終わる。こうして、メシアの栄光が現わされることになるのだから、きょう「正しい」について、自分たちのあいだに異見や異論があっても、大いによしとしよう、と。

えー、なんなの、その開き直り? という感じもしないでもないのだが。。。

しかし、まあ、ある種の慰めにはなる考え方ではあるよね。

わたしは、自分の良心にしたがって、正しいと信じて、この、言葉と行動を、おこなった。周囲は、それは「正しくない」と評価した。だから、イエス・キリストの再臨の日を待ち望もう。その日、イエスは、わたしたちの対立を完全に終わらせて、われにも、かれにも、心からの、ほんとうの満足を与えてくれるはずだから。

だから、その大いなる慰めの日を、待ち望もう。


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