バチやバツではなくイエスを目の前に置いて生きる、っていう話です。
悪いことをするとバチがあたるよ、って小さい頃から祖父母や両親に言い聞かされて育って来て、だから、悪いことをするとイヤーなことが自分の身に起こるに違いない、っていう感覚が染みついている。
バチがバツ(罰)に由来すると気づいたのは、中学生になってからだった。
十代の時には魑魅魍魎という単語も知ったんだけど、それって、子どもの頃から自分が抱いていた漠然とした不安感を言い当てるのにピッタリの表現だなー、と思った。
どういう不安感かと言うと、この世界には肉眼には見えない得体の知れない存在がひしめいていて、そいつらが自分の一挙手一投足をじーっと監視していて、こっちにちょっとでも過失があれば、すかさず攻撃して来る、みたいな感覚だった。
そういう不安感から逃れて平安な世界で生きたい、っていうニーズがすごくあったんだろうね。だから自分は中学2年のときクリスチャンになったんじゃないかと思うんだけど。。。
で、その結果、そういう不安な世界からはオサラバできた。。。
今日の聖書の言葉。
でも、クリスチャンになったあとで、神の本(聖書)にも魑魅魍魎がけっこう出て来るんだなー、ということに気が付いて、なかなか感慨深かった。
それはどういうのかと言うと、裁きの天使、死の天使、主からの悪霊、諸国民の天使、罪を犯した天使、悪魔、悪霊、位の天使、主権の天使、支配の天使、権威の天使、といった存在だ。
新約聖書では、それらの魑魅魍魎をさくっと「諸霊」(ストイケイア)という概念でまとめた上で、イエスの十字架でもってバッサリ成敗している。証拠聖句がこれだ。
上記の聖句を読んで特に自分が好きだなー、と思うのは、イエスにおける「神」が十字架と復活というアクションを取ることによって
① わたしたちの一切の罪を赦し
② 不利に陥れていた証書を破棄し
③ もろもろの支配と権威の武装を解除した
っていうところだ。
魑魅魍魎の世界観では、目に見えない諸霊が常に監視していて、人間の罪過を証拠として記録している。その記録物が「証書」だ。
いまだ現物を見たことが無いから想像に過ぎないけど、たぶん、ひとりひとりの「証書」が用意されていて、そこに人間が生まれた時から臨終の瞬間までのすべての言葉・思い・行い・怠りが記録されているんじゃないかと思う。それに対する評価と共に、ね。
で、その評価に基づいて「諸霊」はバチ=バツ=罰を執行すると。
しかし、イエスにおける「神」は、われわれを赦してくれた。その方法は、神が無限の価値を持つ神の命(イエス)を代価として十字架で支払うことにより、全人類の罪過を帳消しにし、負債の証拠である「証書」を破棄し、それに伴い御役御免となった「諸霊」を無力化することによって、だ。
つまり、イエスが復活したあとの世界は、魑魅魍魎が消え去って、もはやいかなる呪いやバチや罰も無い世界になっているのだ。
だけど、残念ながら自分は子どもの頃から染みついた「悪いことをするとバチがあたるよ」という感覚にいまだに引っ張られることがある。。。
でも、もう、そうじゃないんだよね。
悪いことをすると、自分のために身代わりに罰を受けてくれたイエスが残念な思いをするよ、っていう感覚を持たなきゃいけないんだと思う。
なので、自分が生きる上で必要なのは、罰を恐れることではなく、イエスと一緒に笑って生きることができるよう日々最善の努力をする、ってことになるんじゃないだろうか。
その努力を言い表すのに次の聖句がピッタリだと思うんだ。
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