焼き魚を食べるイエスを見る or 見ない
ある無神論のひとと話をしたとき、「この目で神を見たら、信じますよ」と言われたことがある。
まあ、ふつう、そう思うよね。目でみて確かめないとさ、世の中、あぶなっかしくて、どんな目にあうか、わかったもんじゃないじゃん。。。
でも、聖書を読んでいると、おもしろいことに、人間って、自分の目で見ても、信じられない、ってことがあるんだよね。
典型的なのが、ここ。
十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
マタイ28:16-17 新共同訳
これって、十字架にかかり、復活したイエスが、ガリラヤで弟子たちに姿をあらわした時の場面だ。
なんと、弟子たちは、目の前に復活のイエスを見ているにもかかわらず、信じることができなくて、疑った、というんだ。
あと、これ。
イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
ルカによる福音書24:36-37 新共同訳
復活のイエスを見た弟子たちは、「ぎゃーっ、幽霊が出たーっ」と、恐れおののいた、というわけだ。アホか。。。
困ったイエスは、「どうして心に疑いを起こすのか。 わたしの手や足を見なさい」「触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と言って、手と足を見せるんだけど、弟子たちは、不思議がって、まだ信じられないんだ *。
これって、自分の目で見て、かつ、手で触って、感触を確かめて、それでも信じられなかった、ということだよ?
ほんとうに、どうしようもないので、イエスは苦肉の策として。。。
イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
ルカによる福音書24:42-43 新共同訳
想像するに、イエスは、かたずをのんで見守る弟子たちの前で、ゆっくりと、味わいながら、さぞかしおいしそうに、焼き魚をたいらげたんだろうなあ、と思う。弟子たちが、口からたれるよだれをぬぐうさまが見え、お腹がグーッとなる音が聞こえて来るようだよ。
ほーらね、どこの世界に焼き魚を食べる幽霊がいるんだ? でも、このオレは焼き魚を食ってる。わかるだろ? オレは、ほんとうに復活したんだ! という、イエスの強烈なメッセージが、焼き魚を食べるという行為に込められている。
今日の聖書の言葉。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
ヘブライ人への手紙 11:1 新共同訳
結局のところ、イエスと三年間ずっと寝起きを共にして、しかも、あらかじめ復活についてイエスから何度も予告を受けていて、その上で、復活のイエスに出会って、自分の目で見て、自分の手でイエスの手と足にさわって、骨も肉も皮もちゃんとあることを、自分の感触で確かめて、それでもなお、弟子たちは、信じることができなかった、というわけだ。
もうね。。。絶望しかない。。。
人間は、自分の目で見ても、信じることはできないんだ。
だって、出発点からして、そもそも、信じていないんだから、つまり、ちっとも信頼していないわけなんだから、自分の目で見ても、心に入って来ないんだと思う。
逆に、人間は、見なくても、信じることができる。見なくても、心の底から信頼していれば、ちゃーんと心に入って来る。。。それが、信仰の世界なのだ。
イエスさま。。。あなたが焼き魚をおいしそうにたべる姿を、この目で見てみたいという思いがないわけではありませんが、でも、わたしは、あなたが復活したことを信じます。見てはいませんが、信じます。ですからイエスさま、いま、わたしの心に、お入りください。。。
註)
* Cf. ルカ24:38-39
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