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絶望の淵に立たされたら、やれることと言ったら、悲嘆しかないわけで。。。でも、それだけじゃあない。っていう話です。

自分の力ではどうすることもできない状況に追い込まれたとき。。。

そのときのオワタ感(ああ、人生終わってしまった、という感覚)っていうのは、ほんとうにもう、どうしようもないものだよね。。。

旧約聖書を読んでいると、絶望の淵に立たされる、っていう状況が、しょっちゅう出て来る。

イスラエル・ユダヤの民も、預言者たちも、ダビデ王も、何度も何度も絶望的な状況に追い込まれた。

その絶望の絶望たるや、国が滅び、民が滅び、個人が滅ぶ、というレベルの絶望だから、生半可じゃない。ほんとうの絶望だ 。。。

今日の聖書の言葉。

主はわたしの力、わたしの盾
わたしの心は主に依り頼みます。
主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。
歌をささげて感謝いたします。
詩編 28:7 新共同訳

今日の聖書の言葉は詩編28編だけど、ダビデ王が歌ったこの詩編は絶望的なトーンからスタートしている。こんな感じだ。

主よ、あなたを呼び求めます。
わたしの岩よ
わたしに対して沈黙しないでください。
あなたが黙しておられるなら
わたしは墓に下る者とされてしまいます。

墓に下る感覚。。。ああ、もう自分、死ぬんだな、死ぬしかないんだな、という感覚。。。

まさに絶望のきわみだよね。

でも、ダビデ王は「信仰」という首の皮一枚でふみとどまろうとした。

その皮が、これ。

嘆き祈るわたしの声を聞いてください。
至聖所に向かって手を上げ
あなたに救いを求めて叫びます。

絶望感のなかで出来ることと言ったら、わが身の不遇を嘆くことぐらいしかないわけだけど。。。

でも、からしだね一粒ほどの信仰があれば、「悲嘆」の声をそっくりそのまま「祈り」に転換することができるんだ!

つまり、こういう式が成り立つことになる。

悲嘆 ✕ 信仰 = 祈り

そうやって祈った祈りは、冷たい空気をふるわせて消えてオシマイ、ということにはならない。

この世界の後背には「神」がいて、神のココロのなかに「祈り」が入って行くのだから。

そうして、神のココロのなかで認識された祈りは、永遠に存在し続けることになる。

なぜなら、祈りは神のココロに深く刻印されるわけだからね。

主をたたえよ。
嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。

自分の祈りが神のココロに刻印されたことを確信することができたなら、その瞬間、世界は変わり始め、自分のココロが変わり始める。

主はわたしの力、わたしの盾
わたしの心は主に依り頼みます。

その結果、最初は絶望感満載で祈り始めたにもかかわらず、祈りのトーンはやがてヨロコビに転調して行くんだ。こんなふうに。。。

主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。
歌をささげて感謝いたします。

単に喜ぶだけじゃなく「喜び躍る」と言うんだから、スゴイ変化だよね。絶望のきわみ~からの~喜び躍る、だから。

なので、さらに、こういう式が成り立つんじゃないかと思う。

悲嘆 ✕ 信仰 = 祈り
祈り ✕ 神 = 喜び躍る

もし、この式が自分に対して成り立つのであれば、今日の自分は「喜び躍る」ことが可能なはずだ。

それだけじゃない。。。

神のココロが受け取った祈りは永遠に存在するわけだから、この式の時間の係数は永遠になるわけで。。。

そうなると、この式自体は永遠に成り立つわけで、それはつまり、自分は永遠に「喜び躍る」ことが理論的には可能、ということになるんだよね。

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