ひとり? グループ? どっちがいい? それを永遠の観点から考える、って話です。
神の聖性に魅了されて、自分もそうなりたい、と願う。。。
その願望から、スピリチュアリティの追求が始まるんだろうなー、と思う。
スピリチュアリティの追求の仕方としては、大まかに言うと
人と人のつながりを重視するグループタイプのやり方
ひとりで完結する隠遁者タイプのやり方
この二つがあるんじゃないだろうか。
グループタイプは、スモールグループとか、バイブルスタディとか、リトリートとか、あと、教会や修道院も、グループだよね。
隠遁者タイプは、アラビアの洞窟のパウロとか、砂漠の師父とか、正教会の佯狂者とか、古儀式派の森の隠者とか、いわゆる独住修道士というやつだ。
今日の聖書の言葉。
コロナ禍になって、多くのイベントやリトリートがキャンセルされて、それどころか、毎週の教会の礼拝すら中止になって、なんかもう、全人類独住修道士状態になってたんじゃないかと思うんだけど。。。
まあ、考えようによっては、ひとりで聖書を読んで、ひとりでお祈りをして、ひとりで神を信じていれば、ひとりで完結できそうに思えなくもない。。。
だって、聖書にもこう書いてあるし。
ここで言われている油とは、聖霊のことだ。聖霊がなんでも教えてくれるから、自分はだれからも教えを受ける必要はない。なので、教会に行く必要もない。ひとりで聖書を読んでいればOKっていうふうになるよね?
ところが、今日の聖書の言葉は、こう釘を指すんだ。
ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず
むしろ励まし合いましょう
なーんだ。やっぱり独住修道士じゃダメなんじゃん。。。
でも、なんで?
その理由については、このワードがカギになるんじゃないかと思う。
かの日が近づいているのを
あなたがたは知っているのですから
ますます励まし合おうではありませんか
かの日というのは、永遠の神の都である新しいエルサレムが降下して来て、地上が天国に飲み込まれてしまうモーメントを指しているわけだけど。。。
地上に天国が到来するってことは、過去・現在・未来のすべての贖われた人類がぜーんぶ一緒に暮らし始める、ってことだよね。
一緒に暮らすその人数が何百億人のスケールになるのか、ちょっと想像もつかないけれど、でも、全員が神の聖性にあずかって聖化されているわけだから、人間関係にありがちな、行き違い・誤解・軋轢・陰口・悪口・誹謗・中傷・対立・紛争・闘争とかは絶無のはずだ。
そういうイヤーなことが無いってことは、一緒に暮らしてても、傷つけられたり、悲しんだり、怒ったり、失望したり、絶望したりして、「ひとりになってやるーっ!!! 」って思うことが無い、ってことになるよね?
つまり、独住修道士になりたい、っていうインセンティブが天国ではゼロってことになるんじゃないかと思うんだ。
それが「かの日」なんだよね。かの日が来たら、全人類は完全なハーモニーのなかで平和に楽しく暮らすことができるようになる。
そういう「かの日」が一歩一歩こっちに向かって近づいているのであれば、そりゃもう、いまからグループで生活する予行練習を始めるのは、合理的な要請だよね。
その予行練習が、みんなで集まること、つまり、教会をすること、なんだろうと思う。
「かの日」には、自分ひとりになれる環境は、永遠に消滅してしまう。。。考えようによってはそれは、ちょっとオソロシイ気もするけれど。。。
でも、父と子と聖霊である「神」は永遠から永遠にグループで生活しているわけだから。。。
だから、そういう「神」に似た者に自分がなる、っていうことは、つまり、自分もそういうふうな者になる、ってことなんだろう。
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