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追い返されたエルヴィス・プレスリー

音楽文化論の聴講[第4回]
1950年代 | ロックンロールの誕生と南部アメリカ


聴講生として通学している大学の音楽文化論の授業の4回目が、ありました。テーマは「1950年代 | ロックンロールの誕生と南部アメリカ」。

リンカーンが奴隷解放宣言に署名してから90年近く経ったものの、制度的には白人と黒人は分断されていた(1876年から1964年まで続いた南部諸州の州法"ジム・クロウ法"が、人種差別を公認していました)。とはいえ南部一帯では白人と黒人の生活が、北部ほどには分離しておらず、下層階級の白人は黒人と一緒に働いており、南部の白人は、北部の白人より、むしろ南部の黒人と共通の感覚を持っていた、そして親近感を持ちながら白人と黒人が憎み合っている状況にあった、との説明がありました。

深夜にのみ黒人音楽を放送する、あるいは黒人音楽と白人音楽を取り混ぜで放送するラジオ局がアラバマ州において出現し、密かに黒人音楽を愛好する一部の白人の若者たちが誕生したこと、広がりつつあった黒人R&Bをクリーブランドの放送局でDJをしていたアラン・フリードがロックンロールと名付けたこと、さらには1955年の校内暴力を扱った映画「暴力教室」の主題歌に採用されたビル・ヘイリー&コメッツによる"白人ロックンロール"「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が大ヒットして、白人ティーンエイジャーに反響を巻き起こしたこと、こうしてロックンロールの一般化が始まった。そこにエルヴィス・プレスリーが登場します。

黒人R&B、ブルース、ゴスペル、主流の白人ポップ、カントリー&ウエスタンなどに夢中だったプレスリーは、「黒人音楽のサウンドと感覚で歌える白人」としてデビューし、メンフィス界隈でのローカルヒットを放ったのち、当時の最もメジャーなレコード会社のひとつ、RCAと1955年に契約します。さらにヒットを放ち続けるうちに「キング・オブ・ロックンロール」と呼ばれ、やがてエルヴィスは白人文化と黒人文化の融合を象徴する存在となりました。のちに「史上最も成功したソロアーチスト」としてギネス認定されます。

初期のバックバンドのメンバーのインタビューによれば、エルヴィスはバンドサウンドの全体を理解し、注意を払うことができていたようだ、との先生のコメントがありました。1970年のドキュメンタリー映画「エルヴィス・オン・ステージ」のリハーサル風景を、なるほど、そういえばそうだなぁ、とボクは思い出しました。思い悩みつつも楽しげに、そして熱心に、メンバーと共に音楽作り向かうエルヴィスを捉えていた映像だったと、記憶します。

ボクにとってのエルヴィスは、ナイーヴそのものの人です。ステージ上で見せる自信に満ちた素振りからは想像できないほどの、心の揺らぎを持っていたアーチストだったと思っています。

かつて23年ほども前に、ハイファイ・レコードが運営するウェッブ・サイトに、「亜米利加レコード買い付け旅日記 5」としてエルヴィスについて書いた原稿を発表したことがありました。それを短くまとめてここに再掲します。

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1954年7月、エルヴィス・アーロン・プレスリーは、メンフィスのサン・レコードのプロデューサー、サム・フィリップスの手によってレコード・デビューをした。カントリー歌手の新星、というのが触れ込みだった。地元界隈の反響に自信を得たサムは、カントリー音楽の殿堂、天下のグランド・オール・オープリィにエルヴィスを出演させたいと、古くからの友人でオープリィのマネージャー、ジム・デニーに売り込んだ。ジムはエルヴィスの歌には感心しなかったけれども、サムの熱意に負け単発の出演を認めた。10月2日土曜日の夜、エルヴィスはグランド・オール・オープリィのステージに立ち、「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」を歌った。

このオープリィ出演は、彼の生い立ち物語のなかで、一つの惨めな失敗談として伝えられているという。「それは、エルヴィスが、グランド・オール・オープリィの舞台で不当にあしらわれたうえに、オープリィのマネージャー、ジム・デニーからは”トラックの運転手に戻るように”と言われて追い返され、失望のあまり帰りに車のなかで泣き続けたという、いささか感傷的な逸話である」(グレイト・カントリー・ソングス・エルヴィス・プレスリー 前田 綧子氏の「訳者あとがき」より)。

ナッシュビルからメンフィスまでは、ハイウェイ40号線の一本道をひた走る。山の尾根を越えたかと思うと谷を下り、また山を上る。はるか延々と山道だ。ハイウェイには道路を照らす照明はなく、夜は車のヘッド・ライトだけを頼りに走ることになる。前後に車のライトが消えると、バック・ミラーは漆黒の闇を映し出す。周りには街もなく、人家の明かりは全くない。途方もなく広い広野に、独りぼっちになる。

ナッシュビルからメンフィス間は3時間27分の所要時間と、手元の最新版ドライビング・マップに記されている。夜道だともう少しかかるだろう。全米の高速道路の整備が完了したのが1956年とされていることからすれば、もしかするとプレスリー一行が走った当時の40号線は、まだ今のような充実した道路ではなかったかも知れない。1954年10月、今から45年前、傷心の19歳のエルヴィスを乗せたサムの黒い51年型キャデラックは、メンフィスまで、どのくらい時間をかけて走ったのだろう。

テネシー州の州都ナッシュビルは、人口50万人にも満たない小さな地方都市だ。保険、銀行、印刷が経済を支え、南部の「ウォール・ストリート」の異名を持つ。信者2,600万人を擁するアメリカ最大のキリスト教宗派バプティスト協議会、それに続く信者1,250万人を擁する第2の宗派、メソジスト教会がそれぞれ本拠地をかまえ、ギデオン聖書の本部もある。南部のハーヴァードと言われる1872年設立のヴァンダービルト大学を擁する南部随一の大学都市でもある。

そんなナッシュビルを世界の音楽ファンに有名にしているのは、なによりカントリー音楽である。ダウン・タウン周辺にはレコード会社のオフィス、スタジオ、音楽出版社、アーチスト・マネージメント・オフィス、ライヴハウス、楽器店などが所狭しと立ち並んでいる。なかでもナッシュビルの代名詞として有名なのが、毎週末にオープリィ・ランドにあるホールで行なわれるカントリー音楽番組のライヴ・ショー、グランド・オール・オープリィだ。このショーのために全米各地からナッシュビルに帰ってきたオール・スターがステージに勢ぞろいして、ヒット曲を披露しあう。4,400人の聴衆の熱気で、会場は沸きに湧く。その模様はその昔はラジオで、現在はラジオとTVで全米に生中継されている。1925年に始まった番組は、もはや半世紀を越えるに至った。

一方でナッシュビルには、イーグルスやバーズなど70年代ロスアンジェルス生まれのカントリー・ロックと見紛うばかりのアーチストや、オルタナティブなアーチスト、シンガー・ソングライターなど、新たなカントリー音楽の展開も見られる。こちらはナッシュビル市内に10以上もあるライヴ・ハウスで、夜ごとホットな生演奏が繰り広げられている。そのうちのいくつかが、ピックアップされメジャー・レーベルよりCDとして発売される。こうしたカントリー音楽の新たな展開を聞くと、今なおカントリーが若い世代のクリエイティヴィティの受け皿になっている現実が見てとれる。

ナッシュビルからハイウェイ40号線を南下して、メンフィスを訪ねた。メンフィスはミシシッピー川沿いの港町だ。1800年ごろには川を行き交う船の船頭たちが酒場や売春宿で酒を浴びるように飲み、暴れ回る宿場町だったという。やがて蒸気船、そして鉄道の中継地として発展し、綿や米、煙草などの南部の産物の売り買いや、奴隷売り買いの中心地になった。奴隷制度が解放されてからは、ディープ・サウスの黒人たちが、仕事を求めて北に向かうときに最初に落ち着いた所だともいう。もっと北のシカゴ、デトロイトなどの工業地帯に旅立つ者もいたが、メンフィスで仕事を得たものも多かった。貧しい白人たちにも仕事があった。プレスリー一家は、エルヴィスが高校に入学して間もなくミシシッピー州北部の都市、テュペロからメンフィスに(エルヴィスの回想によると)一文無しで引っ越してきた。テュペロには家族を養うだけの仕事が無いというのが理由だった。両親が仕事を得た一家は、住宅公社に住むことが許されている。

現在のメンフィスは人口68万人。そのうち約3分の1が黒人だ。街を歩いてみると、窓を締め切り大音量でヒップ・ホップを聞きながら運転している車と何台もすれ違う。交差点に止まる車の中で、両手を振り回して大声でヒップ・ホップを唄う黒人もいる。ナッシュビルとは比較にならないほど多くの黒人の姿が目に止まる。数ブロックごとに教会がある住宅街には、どことなく気品のある雰囲気が漂う。
CDショップでサン・スタジオやプレスリーのシングルを最初にオン・エアーしたラジオ局WHBQ、それにスタックス・スタジオ、ファリー・ルイスの住んでいた家とお墓など、メモリアルがどっさり書きこまれた手書きのコピー地図をもらう。サウス・セカンド・ストリートのメンフィス・ミュージック&ブルース・ミュージアムには、数多くの展示物に混ざってボ・ディドリーのギターやガス・キャノンのバンジョーが飾られているとある。そこにはエルヴィスのギターもある、と書かれた記事がコピーされている。コットン・ロウのビール・ストリートのクラブもいくつか記されている。夜更けまで熱気のこもった音楽が響く界隈だ。B.B.キングのクラブもビール・ストリートにある。

エルヴィスはメンフィスのラジオをよく聴き、ビール・ストリートに通って、黒人のR&Bを学んだという。そこには”黒い”フィーリングが熱く渦巻いていた。高校生のエルヴィスは、他の学生よりも髪を長く伸ばし、ポマードでなでつけ、すそをつぼんだズボンをはいた。これは当時のR&Bのミュージシャンの間で流行していたファッションで、白人社会からは異様なものと見られていたらしい。ファッションだけではない。エルヴィスの音楽も黒かった。エルヴィスがグランド・オール・オープリィのステージで唄ったカントリー音楽は、ナッシュビルの白人の聴衆にはさぞかし馴染めなかったに違いない。彼のオープリィ出演は、生涯を通してこの一度だけだった。エルヴィスの音楽は、保守的なナッシュビルでは受入れられなかった。
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こんな原稿でした(様々な数字は、掲載時のママとしました)。

エルヴィスが、"失望のあまり帰りに車のなかで泣き続けた"というのは、あながち嘘ではないとボクは思っています。グランド・オール・オープリィのステージに、その後、エルヴィスが二度と戻ることはありませんでした。大スターとなり、希望さえすれば容易に出演することが可能だったはずの舞台に、彼は立ちませんでした。それほどに、この時の"追い返され"た体験は、彼の心に深く刻まれたのだろうと思います。

メンフィスからナッシュビルまで、夜道を車で走ったことがあります。エルヴィスの"逸話"を追体験したいという気持ちが、そこにはありました。
エルヴィスの歌を聴いている際に、あの夜の高速道路の光景を、ふと思い出すことがあります。ボクがエルヴィスを思うときの原点のような体験です。

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