見出し画像

「何もしない支援」はあるのか?

 福祉の仕事に就いている以上、目の前にいるのは利用者である。困っているようであれば、手を出してしまいそうになる。
 だけど、「手を出す」ことで、利用者の均衡と言うか、リズムが崩れてしまうことがある。
 そうなってくると、「手を出さない」=「何もしない」ことも選択肢の一つではないか、と思い、書いていくことにします。

利用者が『何をしてもらいたいのか』による

 福祉に何ができるのかということも関わってきますが、同時に、利用者の支援者の対する依存度も関係していると思います。

 何でもしてくれる、何でもしてあげる

 と考えていると、どこかで気の緩みが出てきて、ミスをする。書類が足りなかったり、大事なことを聞いていなかったり、する。

 また、利用者と支援者の頑張りの割合での「思い込み」もある。要するに  
 「自分はちゃんとしているのに、あの人はしていない」
 「やっと欲しい事をしてくれない」
 その一方で
 「自分はちゃんとやっている」
 と、やっているのに「やっていない」とみなされてしまうことがある。そうすると、やってもやらなくても同じになってしまうかな?

見守りではない

 利用者の様子を「観察する」ではない。本当に何もしない。
 話をする中でも、支援に活かそうと考えることなく、そこにいるだけ。

 「眼差し」と言ってもいいかもしれない。

あえて「何もしない」ことを選択する職員

 無視しているわけではないが、そう見えてしまう職員もいる。福祉職員としては「ダメな人」と見えてしまうかもしれないが、利用者には自分のことを「ちゃんと見て、知ってくれているから、安心してほっといてくれている」と思う人もいる。
 「何もしない」という選択をする・・・。そんな福祉職員がいいな、と思いながら、しっかり「何もしない」からこそ、しっかりやらないといけないとも思ってしまいますね。

 忙しいから、そこまで支援できない、ということもあるかもしれないけれど、支援されることが苦手なひともいる。

 ただ、利用者としては「何もしない」ことを浸透させることは大変である。だって、困っているのは見ればわかる。

じゃあ、「福祉」ではないじゃん

 その通り。「福祉」ではない。

 だけど、利用者にとっては望んでいることかもしれない。

 そこにいるだけで、安心する存在
 話さなくてもいい存在
 何かしようと必死になっていない存在

 福祉職としては、何かしなければならないこと、へのストレスがあるが、その思いが空回りしていることもある。だけど、「福祉らしくない福祉」をすることで、利用者と職員のストレスを減らすことができるかもしれない。 

支援はしないけど・・・

 支援の中心に本人がいる時に、何もしないとしても、「事前」「事後」はきちんと行なっている。「失敗しないために」というよりも、「ちゃんと本人ができるように準備しているから」「本人に自信があるから」何もしない、こともあるかもしれない。事後にも「できたこと」「できなかったこと」について面談をしている。

 だからといって、本当に「何もしない」ということはない。

 そして、「何もしない」ことから、

  人に振り回されずに、自分で考えること
  自分のできることを信じること
  「困った」「できない」ことが、本当に「できない」のか自問すること
  赤の他人に助けを求めること

 が、生まれてくることもある。

 利用者としては「辛い」こと、である。ただ、同時に支援者としても「支援したくてもできない辛さ」もある。 

 すべては「利用者のため」なのか。

 「職員のため」なのか。→楽をしたい職員

 その答えは、利用者の満足した顔と、支援員の安心した顔を見ればわかる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?