表現の自由か検閲か
「私はあなたの説には反対である。 しかしあなたがそれを発言する権利は命をかけて擁護する。」
"民主主義の、そして言論の自由の大原則としてしばしば引用される言葉だ。
KADOKAWAの出版中止の件で、この言葉をつぶやいている出版業界内の人を見かけたのだが、ちょっと違和感を覚えたので、意見を書き留めておく。
そもそもこの言葉は、1906年にS・G・タレンティアにより書かれた『ヴォルテールの友人』のなかの一節だ。
1906年である。
当然、パソコン・スマホもインターネットもSNSも存在しない。だから当然フィルターバブルもエコーチェンバーといった現象もない。
これに対して、今私たちが生きる現代はどうか。
二つの世界大戦を経て戦時のプロパガンダがいかに残虐な行為を正当化してしまうかを経験し、ルワンダの虐殺の前にラジオ放送で繰り返し扇動していたことも明らかになった。
インターネットを通じてコロナにまつわるワクチン陰暴論が広まったことも、著名な人物にそそのかされるような形で米国の議会襲撃事件が起きたことも記憶に新しい。
有名人が誹謗中傷を苦に自死した事例は一体いくつ起きただろう?
人類が<情報の暴力>というものに対していかに脆弱な存在か、すでに明らかになっている。
情報には、人を死に至らしめるほどの「影響力」があるのだ!
にも拘わらず、その事実を無視して、今とは全く状況の異なる100年以上昔の言葉にしがみついてそれを絶対のものとするのだー!という態度は、まるでディストピア小説に出てくるモブのように馬鹿気ていて醜悪だ。
もちろん、表現の自由は大切だ。私自身も検閲を良しとしているわけではない。反対である。
しかし、検閲を導入せざるを得ない状況になるのを避けるためにこそ、メディアに携わる人々には、「出版ガー、業界ガー、表現の自由ガー」ではなく、もっと広く、「メディアと人類の在り方」という視点で考えてほしいものである。
終わり
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