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『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』を観て諦めがついた

サディスティック・ミカ・バンドは格好いいと思うけど、それ以降の加藤和彦氏の音楽はどうもピンと来なくてちゃんと聴いてこなかった。

年代的には『パパ・ヘミングウェイ(79年)』『うたかたのオペラ(80年)』『ベル エキセントリック(81年)』がちょうど高校3年間にリリースされたアルバムでリアルタイムだった。
このソロ3部作は当時とても話題になっていてFMラジオでかかっていたり、音楽雑誌での特集など目にすることが多かったので、
よし話題のアルバムなのでいっちょ聴いてみるか、とレンタル屋で借りてきたが、当時のロックバカ耳には高尚過ぎて何がよいんだかさっぱり分からなかった。

それは3部作が復刻版として再発された今年に入ってから、
「当時よりは少しは耳が広がっているだろうから」
と(配信で)聴き直してみたが、やはりピンと来なかった。
これはもう「自分には合わないんだ」と思うしかないのだけど、
その理由が今作のドキュメンタリーを観て少し分かったかもしれない。

加藤和彦氏はそもそもが自分とは全く違う世界で生きていた人だからなのだ。
生まれは知らないが(京都の伏見で生まれて、すぐに鎌倉と逗子で子供時代を過ごしたというから、やはり普通の家庭ではなかったのかも)、
不良のタクシー運転手の家庭で育って、奨学金で大学へ通い、会社員として働きながら奨学金とカードローン(親の借金の肩代わり)の返済で四苦八苦していた人間とは全く違う人種だなと思ったから。
そんな人間が作る音楽が響かないのも仕方ないのかもしれないと納得できた。

もちろん、とてつもない大金持ちが作る音楽でも琴線に響くものもあるだろうし、ワーキングクラス育ちが作った音楽が全く趣味に合わないこともあるんだろう。

だけど話はそんなことではなくて、何ていうか、
そう、心のどこかにあるやっかみや嫉妬なのかもしれない。

大阪から東京に出てきた1988年はデザイナーズブランドブームでそれこそそういったショップへ行くにも
「服を買いに行きたくても、着ていく服がない」
という冗談のような時代だった。
当時の東京発信の先端の音楽、ポスト・パンクというか、ニューウェーブというか、デザイナーなどの広義のアーティスト達が仲間でバンドも組んで、クラブでギグをする、みたいな音楽シーン。
そうした流行の発信地は港区(六本木や麻布なんかの←イメージです)に夜な夜な集まってパーティをしている人たちから、みたいな。
一般人もマルイの分割で買った洋服で着飾ってカフェバーなんかのお洒落スポットでのナイトライフ、みたいなそんなバブル最後の打ち上げ花火。
大体がそういう風潮に少し憧れつつも実は全然付いていけなかった自分を思い出す。

加藤和彦氏の一派はそうした上っ面だけの流行なんかとはもちろん無縁で、もっと本物の「何か俺達で新しいもの、楽しいものを作っていこうよ」という発信者側だったんだろうが、
ドキュメンタリー内で「トノバンは」と語る人たちの音楽業界に留まらない人脈、実業家、ファッション業界、フレンチ料理家。

中でも「なるほど、そうなんだよな」と思ったエピソードがあった。
元東芝EMIのサディスティック・ミカ・バンドのディレクターだった新田氏が、加藤和彦氏がアメリカでのソロのレコーディングに帯同した際に
「私たちと旅行する時はもう少し身なりに気をつけてください」
とGパンでTシャツだった新田氏に加藤和彦氏と安井かずみ氏の2人に注意されたというエピソードだ。
その時に新田氏は「目指している音楽が違ってきちゃったな」と思ったと語られている。

要はそういうことなんだな、と思った。
GパンとTシャツで聴いちゃいけない音楽を加藤和彦氏は作ろうとしていたんだと。
誰にでも門戸が開かれた音楽を作っているつもりはなかったのかもしれない。
自身の美的センス、感性を追い求めて音楽に込めていた。
そんな音楽が一般人の自分に合う訳がない。
変な意味ではなくて、純粋にそう思ったのでこれから二度と頑張って聴こうとしなくていいんだな、と諦めが付いたのだった。
(そう諦めだなこれは)

<了>

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