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時は流れて現在の私 12

愛媛県松山市にて、自分の部屋がもらえた事、光線銃を作ろうとしたこと、戦いの道具が好きなこと、犬のチョビを飼い始めた事、花畑を走り回ったり、転げまわったりしたこと、などのお話です。

愛媛県松山市での生活の続きです。小学校の事やらなんやら、東京時代とは随分変化しましたが、最も大きな変化は自分の精神状態かもです。それも、内的な変化ではなく、外的環境の変化による、精神の活動状況の変化だと思います。原因はハッキリしています。

それは東京での10歳までの自分にはなかった「自分の部屋」が与えられたことによるものだと思います。一人の時間が長くなりました。一人で物思いにふけったり、一人遊びする時間が長くなりました。そして自分の部屋で、一人で何らかの活動をすることが始まりました。

それまで物理的に一人の時間というのが、家の中ではなかったため、初めての部屋の中で何かをし始めたのです。何をしたか覚えていることは二つしかありません。一つは「光線銃を作ろうとしたこと」です(笑笑)。自分の部屋と自分の時間ができて、やろうとしたことが「光線銃作り」とは(笑笑)

小学校4年か5年ですから、光線銃(古い言い方ですが)という言い方しか知らず、それもどこで覚えたんでしょうね。昔の漫画とかで「光線銃」なんてものが出てくる漫画は、サイボーグ009くらいしか知りません。映像となると、キャプテンウルトラくらいのものでしょうか。

レーザーガンという単語は、その頃からありました。しかしレーザー光線の原理とか、全く知らないままに光線銃を作ろうとしていたというのは、本当に、ただのおバカさんです(笑)。材料は、雑誌の付録の紙製の望遠鏡と、懐中電灯です(大笑)

子供ながらに「懐中電灯の光」を「光を集める道具である望遠鏡」で集めると、強力な光線が出せるのではないかと考えたんです(笑)。実際、やってみました(大笑)。懐中電灯をオモチャの望遠鏡を通したくらいで、強力な光線ができるはずもなく、それでも「あれえ?あれえ?」とか言いながら、

しつこく懐中電灯と望遠鏡をいじっていた記憶があります。一人になる時間と場所を与えられて、静かに読書でもしていたなら、なかなか知的な子供に見えたかもですが、やっていたことは「あれえ?あれえ?」でした(大笑)そもそも何故「光線銃」だったんでしょうか?

小さい頃から、武器、というか兵器、というか戦いの道具、そういうものが好きだったんです。未来の武器である光線銃も魅力的でしたが、昔の忍者の武器、手裏剣も大好きでした。オモチャの手裏剣でよく遊んでいましたので、オモチャでもいいから、光線銃が欲しかったんですね。

私のものではありませんでしたが、近所のお兄さんが「弓矢」を作って遊んでいるのを見て、大興奮して、一緒に遊びました。お兄さんは、弓の材として、竹刀を分解して取れた竹を用いていました。竹刀の材は留革を外すと、数本の細長い、そして丈夫な竹の棒がとれるんです。

それは素晴らしい弓材で、丈夫でよくしなりました。これに手製の矢(これがどんな材質だったかは覚えていません)を番えて引き絞って離すと、それはそれは素晴らしい勢いで矢が飛んでいきました!当時の私はまだ小さかったので、竹刀の竹の弓を引き絞る力も体格も、ありませんでした。

まあ小学校高学年の男の子なんてみんな、多少なりと、戦いの道具が好きなものです。そのうち興味の対象が戦いの道具ではなく、それぞれ違うものになってゆくんです、自然に。ところが私は、そうはならずに、実は未だに、戦いの道具が好きであり、そういうものに興奮するたちです。

とは言うものの、中学校に入って音楽に目覚めてしまうと、戦いの道具のことを考えている時間もほぼ無くなり「光線銃を作る」あるいは「その他の武器を自作する」などという習性もなくなりました。すみません、光線銃について、長く書きすぎました。他の話題に映ることにします。

愛媛県松山市に移り住み、生活は様々変わりましたが、最も大きな変化は、犬を飼い始めたことだと思います。東京中野では、鳥を飼っていた頃はありました。ある時期はひよこ・・・猫にやられて死んでしまいました。ある時期はジュウシマツ・・・ある朝起きたら、寒さで死んでしまっていました。

しかし、犬や猫やその他の動物を飼っていたことはありません。生まれて初めて、犬が家族の一員になりました。14年間、生きていました。その間、本当に素晴らしい思い出をたくさんくれた素晴らしい犬でした。名前はチョビ。私が24歳の春まで生きていました。

チョビとの出会いは護国寺。私の住居から護国寺は歩いて数分であり、よく遊びに行っていました。ある日、いつも遊んでいた護国寺に行くと、小さな小さな犬がいて、こっちを見ていました。詳細は覚えていません。その犬は帰り道、私についてきたんです。そして我が家で飼うことになりました。

拾い犬だったんです。何故生まれて間もないであろう子犬が護国寺にいたのかは、今もって謎です。でも、そんなことはどうでもよいのです。とにかく可愛かったんです。そして利発な犬でした。自分が「チョビ」という名であることをすぐに認識し「チョビ~~!」 と呼ぶと、すぐに来ました。

犬種は不明です(笑)。柴犬のようでもあり、テリアのようでもありでした。なんせ拾い犬ですから、雑種ではあると思います。小型犬というよりは、中型犬だったと思います。大きなケガも病気もなく、14年という長寿を全うしました。昇天の時の表情も穏やかでした。

松山市祝谷の家の前は道路。その道路を挟んだ向かいは田んぼでした。その田んぼは毎年春にはレンゲソウ畑でした。春にレンゲソウが咲くと、チョビと私は、レンゲソウの中を走り回り、寝転がり、遊びました。まあ当時の子供は、多かれ少なかれ皆こんな生活をしていたと思います。

だからなんでしょうか、私は花粉症ではありません。花粉症になったことが無いので、そもそも花粉症とは何なのか、どんな症状になるのか、なると苦しいのか、全くわかりません。それは多分、子供の頃から、濃厚な花粉を飛散させる花畑の中を転げまわることが日常であったからと思われます。

毎日大量の花粉を吸いこみ続けて育ったんです。多少の杉花粉を吸ったところで、別にどうということはないのだと思います。転げまわった家の前の田んぼ、その田んぼの向こうには、山がそびえていました。小さな山ですが、調べると標高は164.6m。いつか昇ってみたいと思っていました。

御幸寺山(みゆきじさん)という山でした。ある夏の日、昇りました。てっぺんまで。チョビと一緒でした。小学生にはちょうど良い、楽しい登山、というかハイキングでした。自然がいっぱいの愛媛県生活、思い切り自然に触れることができた2年間でした。

今日はここまでにします。次回も、愛媛県生活が続きます。庭のポプラの木にロケット花火を発射したこと、新しい自転車で遠出して楽しかったこと、川の上流の「ホテル奥道後」が、憧れのホテルだったことなどのお話です。お楽しみに。

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