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大友直人先生とのお仕事 「指揮者」とはどういう存在なのかを知る

「警告シリーズ」の超危険な記事を2つも連続してしまいましたので、今日は、少々穏やかな記事を出したいと思います。「警告シリーズ」を期待されている方がいたらごめんなさいです。でも今日の記事は、スゴイ体験の記憶です。この体験で、かなり人生が変わったように思います。

確か1988年、1度だけですが、大友直人先生と、お仕事をご一緒させていただいたことがあります。当時の大友先生は指揮者界の若手ホープという評判の方で、すでに大変有名でした。そんな方と一緒に仕事だなんて、光栄でしたが同時に非常に緊張しました。失敗できないからです。

演奏の仕事でした。曲は三枝成彰先生作曲の新作「川よ とわに美しく2」合唱と管弦楽とピアノとシンセサイザーという、大規模で少々珍しい編成。オケは日フィル、合唱は埼玉合唱団、指揮は大友直人先生。私はピアノとシンセサイザーの同時演奏を担当しました。

もともとは私はシンセ奏者として呼ばれただけで、ピアノを弾く予定はありませんでした。ところが本番2週間前になってピアニストが行方不明になり、いや、これ、信じられない出来事でした。本番直前に奏者が行方不明だなんて、それまで聞いたことありませんでしたし、その後もありません。

結局、マネージャーの「あなた、ピアノも弾けますよね?」と言う電話で、私がシンセと同時に弾くことになっちゃったんです。いやあそれから本番までは、生きた心地がしませんでした。20分の曲のピアノパートを、2週間で弾けるようにしろだなんて、当時の私には死刑宣告のようでした。

だって、とにかく音数が半端なく多いんです。多くの部分が高速アルペジオだし、左右両手で6音同時に弾く和音も多かったです。その6音も両手共にオクターブ以上離れていたりして、手の決して大きくない私には本当に難儀する曲でした。

必死に練習し何とか間に合わせました。なんせ指揮者は大友直人先生です。失敗できないです。自分がピアノを上手に弾けないことを、思い知る日々。いろいろな意味で拷問のようでした。しかもシンセと同時に弾けと。確かに三枝先生は、同時に弾けるように譜面を書いてくださいました。

だからと言って、当時の私にはそんな短期間で20分もある曲を、シャラっとこなせるほどの技量はありませんでした。毎日が死刑台にいるような2週間でした。でもせっかく巡ってきたチャンスです。少しでもいい演奏をしたいと思いました。頑張ったんですホント。

ところで皆さん、オーケストラの指揮者って知ってますよね。大きなホールの客席に一番近いところにある台、これが指揮台と呼ばれる、指揮者の位置です。ここで、オーケストラに向かって棒とか手とか振って、オケに指示を与える役目のポジションです。

昔は、ヴァイオリニストが自分の弓を振って指揮してたり、チェンバロ奏者が弾きながら手を振って指揮してたりしましたが、近代になると指揮者は、奏者と兼任ではなく、専門職として独立します。そして指揮者によってオケの音が変わりますから、徐々に重要なポジションになっていったわけです。

クラシックの好きな人なら、誰でも一度は、指揮者という仕事に憧れます。カッコいいからです。やってみたいんです。クラシックの、それもオーケストラの音楽が好きな人は、自分の好きな曲を再生しながら、指揮者気分で、手を振っていたり、お箸を振っていたりするんです(笑)。

イヤこれホント、外から見てると笑っちゃうような光景ですが、好きな人は毎晩、これやってますよ、きっと。私の場合は大学に入学後、オーケストラのサークルに入り、チェロをやることになりました。チェロは大学の副科でやっていました。好きな楽器です。

最初は高校時代の先輩のいたジャズ研でピアノとギターを弾いていました(笑)。1年の終り頃オケに移籍したんです。約1年間チェロを弾きました。学生指揮者は最上級生の4年生がやるのですが、私は1年後の3年の春に、オケの先輩たちから学生指揮者、略して学指揮を拝命してしまいました。

嬉しいような怖いようなでしたが、逃げるわけにもいかず、ろくにチェロが弾けるようにならないまま指揮者をやることになり、つまり家で箸を振って妄想の中で悦に入る、という過程のないまま(笑)、オケを振ることになってしまいました。指揮って、難しいんです、ホント。苦労しましたよ。

指揮者は曲の始まりと終わり、曲中のテンポなどを、手や棒で合図するのが仕事です。それさえできれば、あとは余計な事をしなくていいんです。でもそれが、実は非常に難しい。合図がヘタだと、オケは鳴り始めないんです。皆さん、のだめカンタービレ見てましたか?あれです、あれ。

千秋先輩が、最初にオケを振った時、オケは鳴りませんでした。あれです、あれ。指揮者って、ただの合図係です。そしてその合図は、その辺の素人がやみくもに棒を振っても、合図として成立しないんです。私もそうでした。最初に振らなくちゃいけない曲は、ベートーヴェンの運命でした。

気が狂いそうでした。あれ、上手に振って上手くオケを鳴らせる人、見たことないです。あの出だし、あれ最も指揮者泣かせの出だしです。散々勉強しました。そしてとうとう、最後まで上手く振れませんでした。ヘタクソな私の為に、オケの仲間に散々迷惑をかけました。みんなゴメンナサイ!

その後も、8分の6拍子の曲とか、3拍子の曲とかあり、私はいつも上手く振れなくて一人苦しみ続けました。まあ、大学のアマチュアオケですから、周りは皆友達やら先輩後輩ですから、救われていたようなものです。プロのオケだと、恐ろしいことが起こります。あるプロオケのお話を一つ。

若い指揮者が来て、リハを始めました。指揮者は「ここはこのように演奏してください」と丁寧にオケにお願いしました。するとホルン奏者が言いました。「じゃあ、そういうふうに振りゃあいいじゃん」と。うわあああっっ!怖い怖い!泣いちゃうよ!プロのオケって、そういう世界です。

さ、毎晩お箸を持ってオケの名曲をかけて、指揮者になった気分でお箸を振っているそこのあなた。これでもまだ、指揮者になってみたいですか?私はもう2度と怖くてプロのオケなんか指揮できません。ん??お前、2度とってことは、プロのオケ振ったことがあるのか?という質問が来そうですね。

実はあります。1度だけ。それも仕事ではなく、あるテレビ局のイヴェントというか、番組で。それはまた別な記事でお話ししましょう。光栄なことに山本直純先生とご一緒できたイヴェントでした。すみません、大友直人先生のお話に戻りますね。

超大変でした。ピア二スト兼シンセ奏者。曲は20分。練習期間は2週間。とにかく音数が半端なく多い。多くの部分が高速アルペジオ、左右両手で6音同時に弾く和音も多く、その6音も両手共にオクターブ以上離れていたりして、手の決して大きくない私には辛い曲でした。

あるリハの日、まだ上手く弾けない私です。大友先生の前で恥ずかしかったです。あまりにひどいピアノだったので、リハ後思い切って大友先生に声をかけました。「すみません、うまく出来なくて」・・・と。大友先生は、信じられないお言葉をかけてくださいました。「いや、大変よく・・・」

ガビ~~ン!! 雷に打たれました。その時の大友先生の目が忘れられません。まっすぐ私を見つめ、そこにはヘタクソな奏者に対する蔑みなど微塵もなく、ひたすら真摯で温かい目でした。よく覚えていないのですが、その時、先生は私の肩に手をかけてくれていたかもしれません。

「いや、大変よく・・・」このたった一言で、私は、なんといいましょうか「救われた」などと言う軽い言葉では到底言い表せない衝撃と感動を得ました。もう「自分はこの人の為なら死んでもいい」と思いました。「この人の為ならなんだってする」と、本気で思いました。そして理解しました。

ああ、指揮者というのはこういう人の事を言うんだ、と。奏者一人一人に、「この人の為なら死んでもいい!」と、そこまで思わせることのできる人が「いい指揮者」なんだと。そしてさらに理解しました。そんな芸当が、私にはできないことを。できないんですよっ!できないものはできないっ!!

音楽をやっていて「あきらめない意志が大切」なのは、よくわかっているつもりです。でも大友先生に接してみて「自分もこのような指揮者になりたいっ!」と思ったかというと、思えませんでした。そんな豊かな人間性、私にはないんです。できないんですよっ!できないものはできないっ!!

という訳で、大友先生の記事は終わります。素晴らしい衝撃と感動をくださった大友直人先生でした。

話は変わりますが、8月に入り、3種類の記事を順繰りにローテーションしながら書きたいと思います。                     1 有料記事「演奏会の作り方」                   2 「この記事を読んではいけない」の「警告シリーズ」        3 今日の記事のような「有名先生とのお仕事」            のような穏やかな記事。つまり明日は、有料記事「演奏会の作り方」です。お楽しみに。 



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