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作曲のレッスン あれこれ 2

作曲のレッスンあれこれ1の続きです。この記事を読む前に、あれこれ1を読んでくれますと、理解が早いと思われます。もっとも、1を読んでいない人が、この2を読み始めるとも思えませんが(笑)。1では作曲の最初の師匠である土肥泰先生の話。この2では次の師匠、石桁眞禮生先生のお話です。

飯田橋駅で土肥先生と待ち合わせをしました。連れていかれたのは、駅近くのマンション11階の一室。そこが、石桁眞禮生先生のお住まいでした。前東京芸術大学音楽学部長。作曲家。多くの音楽関係書物の著者。土肥先生の時の和声の教科書も著者の一人。楽典も。雲の上の人でした。

当然初対面でした。当然緊張。土肥先生が主にお話ししてくれました。最初に石桁先生は、私の和声のノートを見て言いました。最初の一言からして、厳しいお言葉。「きちんと勉強したようだね。しかし、この音の動きは良くない。感覚の鋭い人は、こんな音の動きを作らない」さらに二言目は、

「私は天才ではない。土肥先生も天才ではない。君は<明らかに>天才ではない」・・・石桁先生は、その<明らかに>に、力を込めて言うのでした。私は茫然自失。いや、決して自分が天才だと思っていたわけではないです。が、こうまであからさまにはっきりと言われると辛いです。しかも初対面。

決して天才だと思っていたわけではないですし、訓練を始めたのも遅くて、確かに、いろいろ自信はありませんでした。でも音楽的感覚だけは、多くの人には負けない、というわずかばかりの自信があり、正直、その一点だけが精神的な支えでした。そのただ一つの支えを、一瞬で打ち砕かれました。

わずかに生え始めていた自信の新芽は、初対面の石桁先生に、顔を合わせるなり、一瞬でバッサリ、根元から切り取られました。二度と再び生えてこないような、完璧な切り方でした。ただ一つの小さな支えを、なくしました。そして、そのような斬撃は、その日だけでは終わりませんでした(泣)

それが、石桁一門への、いわば入所試験でした。かろうじて入門を許された私でしたが、その時はもう、支えを失って抜け殻のようになっていました。石桁先生は、来るべき次週の初レッスンに向け、次々と支持を出しました。あまりに多く全てを覚えきれませんでしたが土肥先生が助けてくれました。

18段の五線紙を用意すること。鉛筆は2Bを用いること。そして教科書は、既成の教科書でなく、石桁先生直筆の、手書き教科書でした。これが、いやがおうにも私の恐怖心を高めました。手書き教科書・・・世界のどこにもない、ただ一つの教科書・・・触るのさえ恐ろしい・・・そして次の指示

「これをコピーでなく、自分の手で全て書き写しなさい。そして来週、僕に返しなさい。最初の6つの課題をやってきなさい。1つの課題につき6種類の解答を作曲しなさい。合計36曲。ただし、僕のレッスンを受けに来る生徒で、36曲しか書かない生徒など、いないからね。わかった?」・・・

「ピアノはやっているんだろうね? 誰に習っているんだ? ん? 梅谷進? ふむ、梅谷君ならば、よかろう」 もうすでに何が何だかわからない状態。右も左もわからない。こういうのを、茫然自失というのだろう。かろうじて、必要事項を書き留め、先生のマンションを後にした。

帰り道、土肥先生に言われた。「その教科書、私も見たいからコピーして私にも1部おくれ。君も、コピーして、来週、石桁先生に返して、そのあとでゆっくり書き写せばよい。そうしないと、課題が間に合わなくなるだろう?この土肥先生の温かいお言葉で、ようやく我に返ることができた。

このようにして、私の対位法の修練は始まった。毎週毎週、36曲+α の課題をこなす日々が始まるようだ。目の前が真っ暗になった。自分が望んだこととはいえ、それまでの生活で、能力的な低さを、こんなにグサグサと、はっきりと言われたことはない。

しかし、初日のこの状態は、石桁先生にとっては、むしろ、初日だから初日くらいは優しく言ってやろう、という意思表示であったことが、次の週からのレッスンで、判った。次の週からは、さらなる地獄が始まったのだった。毎週毎週、精神をグチャグチャに引き裂かれた。あああああああああああ!

今回の記事は、ここまでにします。次週からの「地獄絵図」(笑)は、次回からの「作曲のレッスンあれこれ 3」で投稿しますので、よかったら読んでください。



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