私が音楽している理由 6
「音楽している理由5」の続きです。5までは中学時代のお話をさせていただきました。これからは高校時代に入りますが、その前に、ピンクフロイドのライブに行って、私がどうなっちゃったか、音楽的側面をお話ししなければなりません。ひょっとしたら、これ、非常に重要かもです。
すっかり音楽にのめりこみ、中学を終えた私でしたが、おそらく多くの音楽趣味学生、と言うか音楽趣味人が、罹らない病気にかかったと思われます。ピンクフロイド病、略してPF病とでも言いましょうか。PFが、あまりに素晴らしかったため、それ以外の音楽に感動しなくなっちゃったんです。
オーケストラの演奏会は、実はPFを知る以前から「いいなあ」くらいは感じつつ「感動」まではいきませんでした。ロックが好きになり、中2からたくさんのロックを聴き、中3と高1の間の春休みには、生まれて初めてバイトをしたお小遣いで、ロックコンサートにも2つ行きました。
シカゴとユーライアヒープ(知ってますか?)です。シカゴもヒープも好きで、レコードもいくつか持っていました。期待していたんです、ピンクフロイドの時のような感動を。確かに好きなバンドでしたし、好きなプレイヤーがたくさんいましたから、興奮しましたし、勉強にもなりました。
しかし少なくともピンクフロイドの時のような感動は得られませんでした。がっかりしたというほどではないのですが、素晴らしい演奏にもかかわらず茫然自失のような状態にはなりませんでした。照明が、ただ明るいだけの照明であったのも原因でしょうが、音がフロイドほど美しくなかったんです。
1990年代になってから、再びフロイドは日本に来ました。行きました。そして今度は「感動」して帰ることができました。悟りました。フロイドは他のバンドとは、全く別の世界を作っていたんです。演奏もさることながら、音質と照明の規模と品質が、けた違いだったんです。
そんなこんなで、ちょっとやそっとでは感動しなくなってしまった私でしたが高校に入り、その高校がまたかなり刺激的な高校で、フロイドとは別種の興奮と驚きを得ることができました。これは私にとって、非常に幸運なことだったと感じています。
この高校は当時の都立高校でした。当時の都立高校は自由な気風が重んじられていて、私の通った小石川高校はその急先鋒でした。どんな学校だったかというと制服がない。生徒を縛る、いわゆる「校則」というのがない学校だったんです。服装も髪型も自由でした。今考えると、スゴイ学校でした。
それだけではありません。上履きもなく、昇降口もなく、生徒は教室に土足で入ったのです。更に驚くべきことに、殆どの学校にある「朝のSHR」がなかったのです(驚!)SHRという時間帯はありました。それは2限と3限の間にあり、そこに担任が来て連絡事項を言うための時間ですが・・・
これに担任が来たことは殆どありません(驚!)学期始めと学期末には、さすがに来ました。それ以外に来たのは、何か特別な連絡、例えば修学旅行の日程表を配りに来た時とか、担任ご自身が管理職関係の突然の異動で、担任交代という緊急事態が持ち上がった時くらいしか記憶にありません。
あ、この学校3年間クラス替えなし、担任も3年間継続という学校でした。何から何まで、今の標準的学校とは様相の違う世界でした。また、朝のSHRが無いわけですから、生徒が登校すると、いきなり授業開始です。そして、この学校は基本的に、宿題というものがありませんでした(驚!)
予習は必要でした。特に英語の読本(リーダー)など、1回の授業で1課終わっちゃうんです。その日までにその課の完璧な予習が済んでないと、授業にいても、何が何やらわからない状態になるので、リーダーのある前日は、私などは2~3時間もかけて、その1時間のための予習をしなくちゃでした。
そんなハイペースで授業が進みますから、高校3年間分の読本は、2年の途中あたりに終了してしまい、残された1年半は、英語の小説を読むのが読本の授業でした。教科書ってわかりやすく書いてあるんですが、実際の小説は、四苦八苦しました。実際の英語の小説なんて、わかりゃしませんよ!
英作文の授業は、他の記事でもご紹介したと思いますが、始業前の休み時間に、その日の課の英作文を、一人一つずつ黒板に書いておくんです。誰がどれを書くかは決まっていませんで、書きたい生徒が我先に黒板に駆け寄って、奪い合うように書くんです。それを先生が来て訂正や解説をしました。
朝SHRのない学校ですから、当然にように帰りのSHRもありませんでした。授業が終わると、当番は掃除を始めます。担任は、クラスに与えられた清掃区域を示すだけで、あとは何も言いませんでした。掃除当番の割り振りなどは、生徒が勝手にやっていたように記憶しています。そんな学校でした。
部活は盛んでした。特に文化部が盛んでした。体育系部活は、あまり活発ではありませんでした。入学当初、各部活は新入部員獲得のために、かなり、血みどろの勧誘活動をしていました。声高に「入って入って!楽しいよ!」などと勧誘する部活には、新入生はあまり関心を寄せませんでした。
新入生が最も関心を寄せたのは、軽音楽研究会、略して軽音研。更に略して軽音。なんと当時の都立高校では唯一のジャズビッグバンドの部活でした。ある日の昼休み、新入生歓迎演奏会と称して、中庭に設けられたステージに、軽音の面々が集まり、演奏会を開いたのでした。私も行きました。
というか、殆どの新入生がこれを見て聴きました。なんという曲が演奏されたかは記憶がありません。しかし当時の部長をしていた先輩が、かなり本格的な演奏でテナーサックスのソロを吹いていたことが印象的でした。私は入部しました。ギター志望です。そして驚きました。何に驚いたかというと、
軽音研はジャズビッグバンドですから、ギターは1学年に1人しか必要ありません。3年生のギターも一人、2年生のギターも一人でした。そしてこの二人は、二人とも恐ろしく上手い人たちでした。高校生にしてすでに超絶技巧の持ち主たちでした。しかも二人そろって。かなり劣等感を持ちました。
だって、当時の私は、エレキギターすら持っておらず、当然エレキギターなんて弾けないわけですから。あ、すみません、驚いたのは、先輩が超絶上手かったことではありませんで、1年生のギター志望者が5人もいたことです。4人は必要ないんです。いらないんです。どうしたらいいんでしょう。
新入生のギター志望者5人は、先輩の演奏を見学しました。5人並んでです。異様な光景でした。後から知ったことですが、この学校では伝統的に、軽音のギタリストは、その学年で一番上手いギタリストだったのです。それを知らずとも、私はどうしても軽音ギタリストのポジションが欲しかったです。
3年生の先輩は全員すでに引退して、指導は2年生の先輩の役目でした。先輩は後輩たちに、順番に自分のギターを貸して、演奏指導をしてくれました。優しい先輩でした。萩野さん。のちにこの方、かなり名のあるプロになられました。そして最初の5人は、一人また一人と軽音を去っていくのでした。
とうとう私一人が残りました。なんか嬉しかったです。エレキギターも買ってもらいました。とうとう自分のエレキギターで練習ができるようになりました。しかし先輩の技量は、雲の上でした。質問に次ぐ質問をして、少しでも萩野先輩に近づきたくて、頑張る日々が始まりました。
今日はここまでにします。こんなとりとめのない文章を読んでくださった方、本当にありがとうございます。もうお分かりと思いますが、この時点で私はすでに、ロックギタリストになりたいという具体的な希望を持つに至りました。次の「音楽する理由7」では、1年の文化祭の事を書きたいです。