2022年10月21日(金) 藤澤仁奈 マリンバリサイタル 天使が地上に舞い降りた夜 その1
2022年10月21日(金)、初台の東京オペラシティリサイタルホールにて「藤澤仁奈マリンバリサイタル」が催され行ってきました。
藤澤仁奈さんについては、もはや説明不要と思います。昨年10月の、私のnote記事でご紹介した通り、私が思うに我が国最高のマリンバ奏者です。
昨年のリサイタルについては、一つの記事に収めましたが、今回は到底一つに収まりそうにないので、複数の記事で書いてみようと思います。今回の「その1」ではリサイタルと藤澤仁奈さんの全体像を、次回の「その2」では、演奏された各曲について、次々回の「その3」では、リサイタルに関わった共演者、作曲者などの人物についてを、書きたいと思います。
この1年、藤澤仁奈さんの他の演奏会にも行きましたし、クラシックだけでもたくさん演奏会に足を運びました。クラシック以外も様々なライヴに足を運び、また様々な機会に自分でも人様の前で演奏してきました。
つまり私自身もいろいろ勉強と経験をしましたので、素晴らしい演奏会に出会ったとしても、1年前よりは驚かなくなっているはずでした。
ところが・・・
天使が地上に舞い降りた夜
天使かもしれないし妖精かもしれません。昨年のリサイタルでは「天上人」という印象が強く、藤澤仁奈さんは「手の届かない所にいる天上の存在」でした。今年はその、「天上人が地上に舞い降りて、我々下界の存在に語り掛けている」ような、崇高ながらも温かい印象のリサイタルになりました。
藤澤仁奈さんは、ステージを降りたら普通の人間です(笑)。ただステージの上でだけは、何かが憑りついたか、到底人間とは思えぬ存在に昇華してしまっているように感じるのです。
昨年のリサイタル、演奏が神業で、ステージで舞っていたのは、人間という生物の域を超えた存在でした。なので「見てはいけないものを見てしまった」あるいは「聴いてはいけないものを聴いてしまった」という感覚に襲われました。ステージ上では殆ど演奏のみで、お話をする場面が少なかった事も「天上人」の印象を強めたかもしれません。
今年のリサイタルでは、演奏は昨年同様、神懸かっていて素晴らしかったのですが、それを行った存在が、私たちの世界、地上に降りてきてくれたような、そんな安心感と温かみを感じさせてくれるような演奏会でした。
何故今年はそのように感じたのか、原因と思しきことはいくつかあり、 ➀ お話する場面が、昨年より多かった。下から見上げるしかなかった昨年に比べ、ちゃんと下界に降りてきてくれたように感じた。 ② お話の内容が上品で優雅。綺麗。 ③ 声が美しく、品格を感じさせた。
私が最も心を動かされたのは、③の「美しい声」でした。藤澤仁奈さんの声は、極めて心地よい声です。これは、その場に実際にいないと感じ取る事ができません。声の質というのは、聴く人に絶大な影響を及ぼします。ああ、歌を歌わせてみたいです。きっと素晴らしい歌声に違いありません❣
さて、次はいよいよ、この夜の演奏についてお話ししたいと思います。 下は、昨年のリサイタルのフライヤーです。
奏者として人前で演奏するとは、何なのか
思えば19世紀前半、フランツ・リストによって「リサイタル(独演会)」なる演奏会形態が考案されてからというもの、本当に星の数ほどたくさんの楽器演奏者によって、星の数ほどのリサイタルが催されてきました。
私も還暦を過ぎてまして、それはたくさんのリサイタルに足を運びました。そして、多忙な中で時間を作り、相当の金額を支払い、期待してリサイタルに足を運んだのですが、残念な事に正直な感想、そのうちの多くが 「うう~~む・・・💦💦」だったのです。
いや、もう少し詳しく言うと、今までのリサイタル、そのどれもが等しく、演奏者の気迫や努力や高い技術を感じさせるものではありました。演奏者が皆、命がけ、必死、死にそうになりながら準備してきた、それはちゃんと、感じ取っています。
私も奏者の端くれですので、たった一人でステージに上がり、たった一人でピアノ(私の場合)に向かい、相当時間一人で演奏し続ける事の恐ろしさを、知っています。コンクール経験もありますので、他の奏者と直接比較されてしまう恐ろしさも知っています。
そして「じゃあ、お前、同じことやってみろや!」と言われたら「私には出来ません💦」と言うしかありません、が、そこまで判っていますが、それでも、正直な感想は、「うう~~む・・・💦💦」だったのです。
リサイタルで聴きに来てくださった方々に「うわあああ・・・💦」という、「声も出ないような感動👆」を味わっていただく、素晴らしいリサイタルもあります。少ないですが、確実にあります。そして、そのようなリサイタルこそが、「本来あるべきリサイタル」だと思います。
「楽器を鳴らす」とはどういうことなのか
お金を払って来ていただいたお客さんに「うわあああ・・・💦」と感動していただけるリサイタルでは、作曲者の魂が、演奏者の頭脳と肉体を通過し、演奏者とつながっている楽器を通過し、現世の空間に楽器の音を放射して、それがお客さんに伝わると「うわあああ・・・💦」と感動していただける、私はそのように感じています。
「楽器を鳴らす」とはそういうことだと思います。それができる奏者の演奏は、感動的です。演奏者に求められる力量は、単に手や指を動かすこととは少し違い、作曲者の魂を感じ取り、それを自分の頭脳と肉体を極限まで駆使して「通過」させるのです。
ここで間違えてはいけないのは、演奏という行為は、演奏者自身の「感情を込める」ことではない、という事です。演奏者は透明な通過点であるべきです。演奏者の肉体は、あくまで、作曲者の魂を現世に蘇らせるための「通過媒体」であるべきです。
そして演奏者が、そういう「透明な通過媒体」になった上で、楽器に向かい、楽器を鳴らす、というより、「楽器に鳴っていただく」のです。ここで感じる事は、演奏者は生物でないはずの「楽器」と、同じ位「生物でない状態」になると「透明になれる」ような気がします。
それができると作曲者の作品は、次のような理想的なプロセスで、お客さんに伝わることになるのだと思います。
「演奏者と楽器が一体となった透明な通過媒体」
だからといってこれは「演奏者が自分を殺すこと」では決してありません。演奏者が作曲者の魂を感じ取り、作曲者の魂と自分の魂がシンクロしていれば、自然に「透明な通過媒体」になれるのです。そして、それができる演奏者こそが、優れた演奏者と言えるのだと思います。
藤澤仁奈さんの演奏が、神々しい理由
昨年は「技術よりも音楽性が芳醇」という表現をしましたが、それがどういう意味なのかと言うと、上記のような意味なのです。藤澤仁奈さんは神業的な演奏技術を持っていますが、それは作曲者の魂を感じ取り、ご自分の魂とシンクロさせ、作曲者の魂を現生に蘇らせるのに不可欠な技術なのです。 そういう姿勢で演奏に向かっている、という事が、私には感じられます。
だからです。
藤澤仁奈さんは「最上級のその上のようなリサイタル」ができるのです。
次回に続きます。