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作曲のレッスン あれこれ 1

この記事では、私が受けた作曲のレッスンの様子を皆さんに知らせることで作曲とは、音楽とはどのように作られるものなのか、何らかの参考になれば嬉しいです。ある意味笑える内容なので、ただの笑い話として読んでいただいても、まったくOKです。反響が良ければシリーズ化するかもです(笑)。

私は音楽をするにあたり、師匠には恵まれたと感じています。作曲の師匠、ピアノの師匠、ほんの短いレッスンでしたが、ギターの師匠にもです。師匠たちのおかげで、こんな私でも少しは音楽ができるようになりました。レッスンは厳しかったですが、本当に感謝、感謝、感謝です。

作曲の師匠は二人。最初の師匠は土肥泰(どいゆたか)埼玉大学名誉教授。まずは一人目の土肥先生のことをお話ししましょう。温厚、という言葉に、服を着せて歩かせているような方でした。いつも笑顔を絶やさず、怒られたことなど一度もありません。1998年、故人となられました。

土肥先生は、團伊玖磨先生のお弟子さんでした。管弦楽法は、伊福部昭先生に教わったそうです。團先生が書き、東京オリンピックで演奏された祝典行進曲の吹奏楽編曲をしたのが、土肥先生。当時、日本中の少年少女が、この祝典行進曲を演奏しました。私も中学時代この曲のチューバを吹きました。

作曲のレッスンというのがどういうものか、概要をお話ししましょう。簡単に言うと3段階あります。和声、対位法、楽式の3つです。第一段階の和声は、和音のこと、ハーモニーです。第二段階の対位法は旋律の書き方です。旋律、つまりメロディーを、一本書くのではなく、他のメロディーと絡めて同時に2本、レッスンが進むと、3本、4本と増えていきます。第三段階の楽式は、音楽の形式です。

私は土肥先生に主に第一段階の和声を教わりました。温厚な方でしたので、怒られたりすることはなく、そういう恐怖感はありませんでしたが、私はいつも、戦々恐々としながら、レッスンに通っていました。何故、怒られないのにおびえていたのか。それは私が勝手に恐ろしさを感じていたからです。

そもそも作曲のレッスンとはどういうものなのか、多くの方々には未体験ゾーンでしょうから、そこから若干の説明をさせていただきます。先生がいます。生徒がいます。教科書があります。教科書には課題が書いてあります。授業は通常、一週間に一度、時間は、通常1時間ほどですが、場合により、30分で終わってしまったり、2時間を超えてしまう場合もあります。

先生は生徒に、教科書を読んでそれを理解し、課題をやって提出するよう求めます。ここまでは通常の学校の先生と生徒と授業のイメージでしょうか。ここから先が違いました。初レッスンの前の日、土肥先生は言ったのです。本を読み、課題をしなさい。読んで判らないなら作曲をやる価値はないね。

私の恐怖は、ここから始まったのです。まず「課題はどこまでやってくればよいですか?」と尋ねると「どこまででもいいよ」と。ここで恐怖が、一層増しました。読んで理解できなかったらどうしよう、と、戦々恐々としながら、必死に教科書を読み、可能な限り先まで、課題をやり続けました。

次に課題の説明をします。作曲の課題というのは音を組み立てる練習です。和声の場合は、四声体と言って四つのパートがあり、これに、音を当てはめていく練習をします。四声体というのは混声合唱の時の四つのパートです。そもそも、和声という概念は合唱音楽から起こったものなのです。

合唱の四声体は音の高い順にソプラノ、アルト、テナー、バスと呼びます。それぞれのパートには、音域制限があり、この制限を超えて音を使ってはいけません。人間が声を出す場合にも、出やすい音域と出にくい音域があり、この過程で、作曲学生は、パート毎の音域の使い方の基礎を学ぶのです。

課題は、4つのパート全ての音を、勝手に書いてよいわけではありません。課題は必ず、どこかの1パートの音は、すでに設定されています。初期段階ではバス。段階が進むとソプラノの音がすでに書かれています。これらを、バス課題、ソプラノ課題、と呼びます。

課題は、一つの課題につき、残りの3パートの音を埋めていくのです。簡単に言えばそうなりますが、各パートにはパート毎の音域制限があり、その上、音楽理論上の「禁則」があります。「禁則」とは、音の動きについての制限です。たくさんあります。興味ある人は教科書を買ってみてください。

全ての禁則にひっかからないようにし、音域制限も守ったうえで、3パートの音を埋めていく作業は、最初は楽しいのですがだんだん苦しくなります。気を付けて気を付けて課題をこなしていくのですが、私は1回のレッスンで2つ3つくらいは、禁則破りをしてしまうのでした。

土肥先生は、禁則破りを見つける名人でした。怒られるかと思いきや、違いました。笑うのです。それも、さも楽しそうに「ムッフォッフォッフォッ」と笑うのです。土肥先生から見れば、私など、笑う対象でしかなかったのでしょう。悲しいやら悔しいやら、複雑な感情でした。

そんなレッスンが果てしなく続きましたが、教科書3冊が終わるころ、土肥先生は、レッスンを始める時と同じくらい恐ろしいことを言いました。私は和声のレッスンと並行して、実創作の教えを受けていましたが、その傾向が、フランス近代音楽に偏っていることを見抜いた土肥先生は言いました。

今すぐフランス的な音楽から抜け出しなさい。今抜け出せないと、一生抜け出せなくなる。すぐにフランス以外の音楽で、お手本にして傾倒できる音楽なり、作曲家なりを見つけなさい。と。土肥先生に出された課題で、これが一番難儀しました。数多の音楽を聴き、必死に探しました。

ついにたどり着いた、新しいお手本作曲家。それがスクリャービンでした。私がスクリャービンに出会えたことは、土肥先生のおかげです。おかげで今でもスクリャービンは、私の研究対象で目標です。ピアノの国際コンクールで入賞した時も、弾いたのは、スクリャービンでした。

時は流れ、私の作曲の修練は、第二段階の対位法に移ることになりました。私は土肥先生に伴われ、飯田橋の、新しい先生の所に連れていかれました。芸大の前音楽学部長、石桁眞禮生先。そして、この時を境に、それはそれは恐ろしいレッスンが始まったのでした。

それがどのようなものであったかは、次の記事で書いてみようと思います。この記事は、ここまでにしようと思います。読んでくださった方、大変ありがとうございました。あ、昨夜投降した「カンタータ新嘗」の圧縮短縮版の3曲、よかったら聴いてみてくださいね。




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