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金門島 戦跡ガイド ――「台湾有事」の最前線を歩く
はじめに
金門島は、最近、メディアによってにわかに注目され始めた地域だ。日本ばかりではなく、欧米のメディアでも金門島を報じる動きが広がっている。
その注目とは、いうまでもなく「台湾有事の最前線の島」としてである。
実際、金門島に行くと、目の前に中国大陸・厦門の高層ビル群が建ち並び、この島が本当に台湾なのかと驚くばかりだ。大金門島から厦門へは、約10キロ、小金門島(烈嶼郷)からは、約5・4キロの位置にある。これに比べて、金門島から台湾までは、約190キロにもなる。
金門島を訪れると、確かに、この島はかつては「最前線の島」であり、「中台戦争の戦場」であったことが分かる。
1949年最後の「国共内戦」を戦い、その後1954年からは第一次・第二次台湾海峡危機を経て、1992年戒厳令解除まで、まさに、「冷戦の島」(マイケル・スゾーニ)であったのだ。
およそ、この43年間、金門島は戒厳態勢下に置かれ、この小さな島に、島の人口以上の、最大約10万の軍隊が駐屯し、住民はこの軍隊の兵站(補給)を支え、さまざまな地下坑道や軍事施設を造るために動員されるばかりか、「戦闘村」(武装民兵)の兵士としても戦争に駆り出されてきた。
しかし、金門島は、今「最前線の島」から「平和の島」へ生まれ変わろうとしている。
かつての軍事施設――多数の地下坑道、要塞、トーチカ、戦車、大砲などは、今日では「戦争遺跡」として全面的に公開され、台湾の人々ばかりか、中国からも多数の人々が訪れ、「平和学習の場」として活用されている。
というか、金門島を訪れると、台湾政府が、これらの軍事施設を「観光資源」として徹底的に整備(「金門国家公園」)し、大いに活用していることが分かる。
筆者は、日本の占領下にあったサイパン、グアム、フィリピン、シンガポール、チェジュ島などの戦跡調査を行ってきたが、これほど整備された戦跡を見たのは初めてだ。
そして、金門島と大陸・厦門の間には、今では直行フェリー便が開通し(2000年1月)、両岸を結ぶ初の光海底ケーブルが敷設(2012年8月)、中国から金門島へ送る海底送水パイプラインもまた完成(2018年8月)したのである。さらに、両岸では、送電線敷設や架橋・海底トンネルも企画されているというが、台湾政府は強く反対しているという。
いずれにしても、中国と金門島の間では、小三通政策(通商・通行・通便を表す)によって、中国との交流・交易が大きく発展し、金門島自体は、台湾海峡両岸にとってハブ機能を持ち始めている。新型コロナ前は、中国からの来訪者は、年間で延べ50万人を超えていたという。
このような状況の中、ついに金門県地方議員8人から金門島を非武装地帯「平和の島」にという「島から全ての軍隊と軍事施設を撤去」を要求するという声明が発表された。1949年以降、長期間の軍事的屈従を強いられてきた金門島の人々には、平和に生きるためには、もはや自ら金門島の島々を非武装地帯とする他はないのだ。
言うまでもなく、非武装地帯宣言とは、国際法に定められた「平和に生きる権利」である。1977年ジュネーヴ諸条約においても、第51条に「文民たる住民の保護」が明記され、第59条「無防備地区」、第60条「非武装地帯」が掲げられている。
これは、第二次世界大戦以後、戦争によって兵士よりも住民の被害が極端に大きくなってきた状況の中、住民を守るために不可避的に制定されたのだ(住民の死亡者は、第二次大戦では48%、ベトナム戦争では95%にも達した)。
金門島の総面積は、約150キロ平方メートル。この大きさは、琉球列島の宮古島とほぼ同じ大きさだ。島の地形も、宮古島と同じでほとんど山がない。
宮古島(石垣島)は、中国大陸から約400キロだが、九州本土からは約1千キロも離れている。つまり、金門島と同様、戦争が始まれば「本土」側と異なり、最初の戦火を浴びるのだ。
この宮古島を始めとした琉球列島に、今日本政府は、「台湾有事」を喧伝し、中国脅威論を煽りながら徹底した軍事化を押し進めている。琉球列島のミサイル基地化であり、対中国への攻撃拠点としての要塞化だ。
したがって、宮古島・石垣島などの、琉球列島の非武装地帯化は、金門島と同じように「平和に生きる権利」として勝ち取らねばならない。
このような意味で、金門島――台湾の人々と、そして大陸・中国の人々の連帯が今後、求められるだろう。本書がその一助となることを願う。
2023年10月21日
小西 誠
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目 次
はじめに 2
金門島戦跡の行き方ガイド 8
第1章 「台湾有事」の最前線・金門島の現在 10
●中台の最前線の島・金門島 10
●全島民が軍事動員された要塞島 11
●「金の如く固く雄々しい海の門」 12
●旧日本軍が駐留していた金門島 15
●金城鎮にひっそりと建立された碑 17
●台湾海峡は波静か 19
第2章 金門県の県都・金城鎮に張り巡らされた民防坑道(金城鎮) 20
●県都地下の民防坑道 20
●金城民防坑道の案内 23
●県都・金城鎮を防御するトーチカ群 24
●海防坑道――翟山坑道 27
●金城鎮戦跡の行き方ガイド 29
第3章 中国軍と国民党軍の最大の激戦地――古寧頭戦役(金寧郷) 30
●古寧頭戦史館 30
●古寧頭戦役とは 34
●古寧頭戦役の主戦場――林厝砲陣地 38
●1号砲堡・2号砲堡・3号砲堡・4号砲堡 39
●戦車がズラリと並ぶ慈湖三角堡 42
●海岸を埋め尽くす軌條砦 44
●大陸向けにテレサ・テンが宣伝する北山放送壁 46
●金寧郷(北西部)戦跡の行き方ガイド 48
第4章 金門島戦争のもう一つの激戦地―瓊林・成功海防坑道(金湖鎮) 50
●瓊林戦闘坑道・民防館 50
●市民武装のモデル村・瓊林「戦闘村」 52
●金門研究の第一人者が語る戒厳体制 54
●住民女性らも民兵として動員 58
●海からの出撃拠点・成功海防坑道 60
●砲撃戦の戦死者を称える八二三戦史館 68
●金湖鎮戦跡の行き方ガイド 70
第5章 軍隊慰安婦たちの記念館「特約茶室展示館」(金湖鎮) 71
●公開された「831特約茶室」 71
●軍管理下の「軍人規定」 73
●台湾軍管理下の「軍事楽園制度」 75
●国会の要請で慰安婦制度廃止 77
●日本軍の軍隊慰安婦と 77
第6章 八二三砲撃戦の最激戦地・馬山観測所(金沙鎮) 81
●大陸への最短地・馬山観測所 81
●馬山放送所を防御する馬山三角堡 87
●八二三砲撃戦の最前線・獅山砲陣地 89
●金門島最大の要塞型トーチカ・船型堡 93
●五龍山成功堡 100
●金沙鎮戦跡の行き方ガイド 100
第7章 中国に一番近い島・小金門島の戦争(烈嶼郷) 102
●小金門島防御の最前線――鉄漢堡・勇士堡 102
●厦門に最も近い湖井頭戦史館 106
●湖井頭戦史館南・双口海辺 109
●双口海辺のトーチカ群 111
●小金門島のL 26拠点という要塞 114
●抗日戦士を称える八達楼子 120
●非公開の基地跡 121
●小金門島を代表する九宮坑道 122
●小金門島の将軍堡 126
●八二三勝利記念碑と勝利門 129
●小金門島戦跡の行き方ガイド 130
第8章 解説 中国軍と国民軍との戦役 50年 131
●蔣介石・国民党軍の金門島占領 131
●古寧頭戦役とは…… 131
●毛沢東による敗北の総括 134
●米国・台湾の軍事同盟 136
●第一次台湾海峡危機 138
●第二次台湾海峡危機 139
●「台湾有事」と金門島の現在 142
●金門島の非武装地帯宣言を 143
第1章 「台湾有事」の最前線・金門島の現在
●中台の最前線の島・金門島
金門島といえば、年長の世代は『金門島に架ける橋』を思い起こす。1962年公開で、石原裕次郎が主演し、当時、軍事紛争中の台湾軍が全面的に支援した劇映画だ。
当時の紛争は、「金門・馬祖」として総称されているが、映画が作られたのは「第二次台湾海峡危機」(1958年~)後の、紛争の真っ最中のときであった。
金門島で、中国軍と台湾軍の最初の戦闘が行われたのは、1949年だ。同年10月1日、「中華人民共和国」の成立が宣言され、同年10月17日、金門島に最も近い中国・厦門を中国軍が占領、金門島は国民党の最後の砦になった(これより先、中国本土で毛沢東・中国軍に敗退した蔣介石は、台湾に追われ、1949年5月、台湾――金門島に戒厳令を敷き、同島を要塞化した)。
そして、「国共内戦」の最後の戦場・金門島をめぐる戦争が、同年10月24日から始まり、約3日間の激戦の後、なんと中国人民解放軍が全滅・敗退――台湾軍の全面勝利という劇的な事態、つまり、「国共内戦」の最後の戦闘で、蔣介石・台湾軍が初めて勝利するという結果で決着がつけられたのだ。
以後、中台の軍事最前線にあり、第一次台湾海峡危機(1954年~)、第二次台湾海峡危機(1958年~)、第三次台湾海峡危機(1995年~)と東西冷戦の象徴とも言える金門島は、「冷戦の島」(マイケル・スゾーニ)とも呼ばれるようになった。
ところで、台湾では戒厳令は1987年に解除されたが、金門島は、5年後の1992年11月7日まで、40年以上にわたって戒厳体制下に置かれていた。この後の翌93年2月7日、金門島は観光地として正式に開放され、95年、金門国家公園として、台湾における6つ目の国立公園として指定された(写真上は、金門島から見た厦門)。
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●全島民が軍事動員された要塞島
この金門島では、1956年より軍政が敷かれ、一般観光客の出入りは厳しく制限された。また、戦地ゆえに経済開発が遅れたため、今でも閩南の伝統集落が残る(閩南とは、福建省、 特にその南部で共有されてきた言語や文化の領域を指す概念)。
もちろん、台湾側からも島は移動制限下に置かれ、住民はこの戦時体制に軍事動員された。金門島には、島の住民を上回る最大で約10万人の兵士が駐屯し、島は軍の食糧供給など兵站基地としても活用されたが、後述するように村や街は「戦闘村」として指定され、住民らは民兵や坑道造りなど、あらゆる軍事動員に駆り出された。
こうした軍政下では、島の祭祀も、ラジオなどの視聴も制限され、文字通り金門島には戦時総動員体制が敷かれていたのだ。
●「金の如く固く雄々しい海の門」
ところで、金門島は、台湾の金門県に属し、台湾島から西に約190キロ、福建省の厦門島から約10キロの距離にある。島の総面積は、約150平方キロメートルで、東西約20キロ、南北約16キロ、中央部分は約3キロにくびれている。
島の地名の由来は、「金の如く固く雄々しい海の門」という意味だ。
金門島は、大金門島(金門島)、小金門島(烈嶼郷、約1万2461人・2016年現在)および大胆島や二胆島など15の島から構成されている。全体の登録人口は、2020年に約13万人だが、実際の居住者は約5万人とも6万人とも言われている。この理由は、島の青年たちは住所を金門島に置いたまま、台湾や中国に働きに出ているということだ。
金門島の地理的特徴は、何よりも中国にもっとも近い台湾であるということだ。大金門島から厦門へは約10キロ、小金門島からは厦門は、約5・4キロ、馬山から厦門の小島まで約5キロ、中国の小島まで約2キロだ。まさに目の前に中国がある。
この金門島から、中国・厦門へはフェリーが出ており、約30分で行き着く。対岸の厦門は、人口約500万人を超える大都市で、金門島、特に小金門島からは、目の前に厦門の高層ビル群が建ち並ぶという異様な光景である。
この金門島への中国からの観光は、1992年の戒厳令解除後、2003年に開放された。また、2018年8月には、両岸を結ぶ海底送水パイプラインが完成し(頁右)、大陸から金門への送水が開始された(全長16キロ、1日約1万トン送水)。地下水を頼りにしていた金門島は、常に渇水状態であったが、このパイプラインによって、長年の「水問題」を解決することが出来たのである。
このように、金門島と大陸中国とは、光海底ケーブル(2012年8月、両岸間初の光海底ケーブルの敷設)、送水海底パイプラインの開通に続いて、送電線敷設や架橋、海底トンネル貫通などの建設も検討されているが、台湾政府側が、こうした動きに反対しているとも言われる。
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しかし、この金門島――厦門間の交流、交易はとどまらないだろう。
この間、金門島と中国とは、「小三通政策」(通商・通行・通便を表す)という政策によって、交流・交易が大きく発展しつつある。
実際に、地理的位置からして金門島は、台湾海峡の両岸にとってハブ機能を持っている。厦門、泉州と台湾本島との移動に金門を経由する人も多いといわれる。往来は、年間約35万人といわれるが、新型コロナ前の中国人来訪者は年間で延べ50万人にも及んだ。
金門島は歴史的には福建省の一部で、住民も本土との縁戚関係で台湾とは異なる歴史をもつ。住民はすべて中国大陸からの移民の子孫で、「その言語、信仰、民間習俗、廟の祭祀などにおいて漢民族の特色や精度を保持……閩南文化の特色をもつ」という(金門県政府発行『金門旅行ガイド』)。
さらに、金門人は、海外にも飛躍している。シンガポールに約10万人、マレーシア、インドネシアなどに各10万人など数十万人の華僑(日本には3千人)が、アジア各地に広がっている。
(*前頁の風獅爺は、風の強い金門島の防風と厄除けの石像で島の守護神。島内の各地に違う顔の風獅爺が建つ。沖縄のシーサーに似ている。下・左の写真は、金門島に多数残る「金門民俗村」、古い中国の村の風景)
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さて、中台戦争の最前線の島、文字通りの要塞島である金門島は、このような中国との「小三通政策」による交流・交易によってどのように変化したのか? また、中国各地から金門島を訪れる観光客によって、どのように変化したのか?
これが、本書「金門島戦跡ガイド」で紹介するテーマである。結論から言えば、かつての軍事の島・要塞島を全面開放し、この島に張り巡らされたトーチカ、地下坑道、要塞などの「戦争遺跡」を、観光資源として売り出すという快挙を行ったのだ(金門島には、2005年で約7万5千個の地雷が現存、推定約2千個の地下壕が現存)。
金門島には、最盛期に国民党軍約10万人が駐留したというが、現在は最大約4千人が駐留しているだけと言われる。この兵員数だと、小さな島には過大な兵員と思われるが、実際、金門島を歩いていても兵士を見かけるのはわずかだ。 実用されている軍事基地も、兵員数の割には少ない。というか、実戦的に機能している軍事基地は、日本や米国の基地と違い、公然と基地の正門(営門)を公開しているのではなく、ひっそりと造られている。観光資源としての基地を公然化したくないのか、それとも、いつか実戦を予定しているのか!
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●旧日本軍が駐留していた金門島
ところで、金門島については、ほとんどの日本人は中台戦争の島という記憶しかないが、この金門島はかつては旧日本軍が占領していた。
1937年7月7日、盧溝橋事件によって日本は中国への侵略戦争を開始したが、同年10月、旧日本軍海軍陸戦隊が金門島を、そして、1938年5月には、厦門を占領した。なお、この時、旧日本軍は馬祖を占領していない(食糧補給が困難と)。
この金門島には、さらに1944年、旧日本陸軍約3千人が占領・駐留した。「台湾侵攻」そして中国大陸侵攻へと向かう米軍との戦闘を、大陸の最前線・金門島で迎え撃つという軍事的意図があったと思われる。
周知のように、米軍はサイパンなどへの侵攻後、フィリピン、台湾から中国南部に上陸するとも予測されていた。その場合、大陸への米軍上陸地点は、港湾が広く、大艦隊の集中に便利な厦門が予想されていた。この厦門には、旧日本海軍「南支艦隊」司令部があった。だが、もはやこの時、日本海軍には、米軍上陸を撃退する艦隊はほとんど残っていなかったのだ。
この事態の中、1944年、陸軍は厦門に近い金門島に飛行場を設営し、米機動部隊とここで一戦を交えることを予定していた(三浦隆蔵著『金門島』)。だが、現実の金門島の日本軍は、完全な「遊兵」と化した。
こういう中で、旧日本軍は、金門県立中学校に金門守備隊司令部を置き、金門島と厦門を「特別自治体」として統治した。
特筆すべき出来事は、金門島では日本軍の統治下、人馬の徴発や阿片のケシ栽培が行われたということだ。「金門島の東海岸一帯を歩くと見事なぐらいのケシの花で覆われており、陸海軍の将校らはこれで私服を肥やしていた」(三浦『金門島』ほか)。
つまり、中国大陸を占領していた軍中央の下で、大量のアヘン貿易に日本軍が深く関わっていたという実態があった。このアヘン貿易によって中国との戦争は、財政的にも支えられていたのだ。
これらのアヘン貿易の取扱高は、現在の物価で年560億円と言われ、日本軍がアヘン流通で巨利を得ていたことが証言されている(NHKスペシャル、調査報告 「日本軍と阿片」2008年8月17日)。
特に、このアヘン貿易に深く関わっていたのが、関東軍・支那駐屯軍である。日本軍は、この占領した地域でアヘンの生産と管理、販売に関与していたが、これには日本政府、財閥系大商社(三井・三菱)などが一体となり、アヘンの密貿易を行っていたというのだ。これが「大東亜共栄圏」なるものの実態なのだ。
●金城鎮にひっそりと建立された碑
金門島の県都・金城鎮の「金城民防坑道」(後述)の出口を出て、道路の反対側を海岸に向かって歩くと、ビーチの近くに小さな公園がある。中には数メートルの高さの碑がひっそりと建立されている。碑の最上部には、馬と馬伕が置かれている。馬伕とは馬を使用した運送業者のことか。
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この碑には、「日本軍に強制徴収された金門の馬伕殉難記念碑」と明記されている。文面からすると、旧日本軍の占領と支配、占領下の暴政に苦しんだ金門島の人々を偲び追悼するために建立されたようだが、今日の台湾と日本との関係を推し量って、大々的には宣伝せずに建てられたものと思われる(なお、碑文の「中華民国九十年」とは、辛亥革命が起こった1911年が「中華民国元年」、つまり、2001年である)。以下はDeepLで翻訳した碑の全文である。
![](https://assets.st-note.com/img/1697705178158-tv1ACgpMRp.jpg?width=1200)
*日軍強徴金門馬伕殉難記念碑
日本軍の中国侵略と第二次世界大戦により、金門は日本の統治下に置かれた。 中華民国34年、太平洋戦争の失敗と連合軍の封鎖により、日本軍は中国人を徴用するしかなかった。
絶望のあまり、彼らは荷物を運ぶために全島から500頭以上のラバと馬と500人以上の飼い主を強制的に没収し、海澄県麦坑へ向かい、帆船で海を渡り本土へ向かい潮汕へ逃亡した。強制連行された馬伕やラバの死者は道中多く、特に盤陀嶺では200人以上が亡くなり、日本軍が降伏した後も残りは死に続けた。
戦争と混乱の中で、歴史的遺物はしばしば抹殺され、真実はしばしば歪曲される。真実が歪曲されることが多いので、私はここで殉職した馬伕の人たちのために侵略者の犯罪を訴える。
後世の人々にこの血塗られた歴史を忘れさせないために、私たちはこの記念碑を彼らに捧げることに同意した。人々の死を共に追悼するために。
この記念碑設置の真意。
県長 陳水在 謹誌
中華民国九十年十月
●台湾海峡は波静か
下の写真は、金門島からの帰りの便の飛行機から台湾海峡を通過する際に偶然に撮ったものだ。映っているのは、澎湖諸島だ。台湾本土から約45キロ西に位置する島々で、金門島・馬祖と並ぶ最前線の島々である。
この美しい島々を、金門島を始めとした島々を「台湾有事」という口実の下に、戦場にしてはならない。そのためには、金門島――琉球列島の島々の「非武装化」を押し進めることが重要である。
![](https://assets.st-note.com/img/1697705224972-pmB5FdroLd.jpg?width=1200)
本書は、電子ブックとして10月26日に発行される『金門島 戦跡ガイド』(オールカラーバン・本体2000円)の第1章の公開である。Amazonほか、電子ブックの各書店で発売しているので、ぜひとも購読してほしい。
![](https://assets.st-note.com/img/1697706174181-MAfaDVw84I.jpg?width=1200)
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