見出し画像

*12/8、日米開戦81年目にあたっての資料! ――日米開戦は、マレー半島への日本軍上陸で始まった(ハワイではない)。

拙著『シンガポール戦跡ガイド・第9章 解説 日本軍のマレー・シンガポール侵攻と占領』から https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784907127084

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●アジア・太平洋戦争の開戦

 「西太平洋」の意味

「臨時ニュースヲ申シ上ゲマス。臨時ニュースヲ申シ上ゲマス。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍ハ今8日未明、西太平洋ニ於ヒテ、アメリカ、イギリス軍ト戦闘状態ニ入レリ。帝国陸海軍ハ今8日未明、西太平洋ニ於ヒテ、アメリカ、イギリス軍ト戦闘状態ニ入レリ」(現在のNHK第1ラジオ放送、1941年12月8日、午前6時0分)

 太平洋戦争の開戦を告げる大本営陸海軍部のこの発表は、ほとんどの日本人には、アメリカ・ハワイの真珠湾を奇襲攻撃した放送として知られている。しかし、この放送を注意深く検討すると、発表は「西太平洋ニ於ヒテ、アメリカ、イギリス軍ト戦闘状態ニ入レリ」とある。

 言うまでもなく、ハワイは「西太平洋」ではない。東太平洋である。ここで言う「西太平洋」が、なぜハワイとなってしまったのかは、戦後史の一つの謎である。開戦を告げるこの最初の大本営発表は、明らかにマレー半島・フィリピン・グアムの米英への攻撃を告知しているのだ。

 そして、このマレー(急襲上陸)とフィリピン、グアム(先制空襲)の同時奇襲、特にマレーへの奇襲攻撃に対しては、英国への「最後通告」(宣戦布告)の用意もなかったことが、意外に知られていない(米国へは「対米覚書」で事実上の宣戦布告を通知)。

 真珠湾攻撃よりも早いマレー上陸 

 また今日まで、ほとんどの日本国民に知られていないもう一つの事実は、このマレー半島上陸は、真珠湾攻撃よりも早かったことだ。つまり、太平洋戦争は、日本軍のマレー半島上陸で開戦したということだ。

 日本軍のマレー半島攻撃は、1941年12月8日、日本時間で午前1時0分に上陸を開始、海岸への到着は午前2時0分である。一方、日本軍のハワイ空襲の時刻は、12月8日、午前3時30分であり、マレー半島上陸後の1時間半後である(グアム・フィリピン空襲は午前8時30分で、このハワイ・マレー上陸・空襲の確認後、開始された。香港攻撃は午前4時0分)。

 真珠湾攻撃よりもより早く開戦を先行し、かつ「宣戦布告」という戦時国際法を一切無視して奇襲攻撃を敢行したのは、マレー半島上陸作戦が日本軍にとって初めての敵前上陸作戦だったからだ。しかも、相手はアメリカと並ぶ強国イギリスである。

 ここマレー半島・シンガポールには、イギリスの誇る空軍基地が堅固に造られており、日本軍の、主として陸軍航空兵力だけでのマレー半島の航空撃滅戦は、困難とみられたのである。 こうして、大本営は、陸軍兵力を直接シンゴラ―コタバルなどへ急襲的に上陸させ、以後、迅速な地上進撃で英軍の航空基地を奪取、南進し、シンガポールへ進軍する作戦を採ることにしたのだ。

マレーシアからのジョホール水道、向こう側がシンガポール

●日本軍のマレー半島上陸作戦

 3個師団6万人の上陸部隊

 さて、この日本軍のマレー半島上陸部隊の陸軍兵力は、近衛師団、第5師団(島根・広島・山口出身者で編成)、第18師団(久留米で編成・通称「菊兵団」)を基幹とする第25軍の約6万人だ。 これを第1艦隊から第4艦隊までの連合艦隊の巡洋艦・駆逐艦11隻が護衛し、また、陸軍の戦闘機・爆撃機612機、海軍の戦闘機・爆撃機187機、合計799機が、上空から援護・攻撃するというものだ。

 この第5師団を基幹とする上陸部隊・支援部隊は、1941年11月までに順次、中国南部・海南島の三亜港に集結した。

 そして、海軍艦隊の護衛の下に、12月8日未明、マレー半島の中央部東岸のシンゴラ―パタニ―コタバルへの上陸を敢行し、上陸後直ちに敵の飛行場を占領し、機を失せずタイ国境を突破、マレー半島を南下するという作戦構想をたてていた。

 タイへの武力進駐の強行

 このうち近衛師団は、開戦と同時に陸路で仏印(インドシナ)―タイの国境を突破(自動車約1千両に乗車)、バンコクへ侵攻するというものだ(タイへの「武力進駐開始命令」)。そして、タイ政府に強制的に「軍隊通過協定」を成立させるという方針である(12月11日、日泰同盟条約[攻守同盟]、仮調印、21日調印。この締結で近衛歩兵連隊はバンコクに進駐した。この後、近衛師団は、陸路マレー侵攻軍主力に合流し、第5師団の後方に集結、状況により第5師団を支援するとした)。

 また、第5師団主力は、マレー半島東海岸のタイ領シンゴラとパタニに上陸、タイ領から英領マレーに侵入し、マレー半島西岸側(東海岸は道路が未整備だが、西海岸は整備されている)より要衝クアラルンプールを制圧、その後、シンガポール島に向かうというものであった。

 この上陸作戦として、もっとも激戦が予想されるのは、マレー半島東海岸のコタバル(英領)へ上陸する第18師団の佗美支隊だ。コタバル付近には、英軍の航空基地が3カ所(コタバル、タナメラ、クワラペスト)もあり、これを制圧し、同時にマレー半島の制空権を確保するのが、日本軍にとっては上陸作戦の成否を決する重点課題であった。つまり、コタバルへの強行上陸の目的は、この三つの飛行場の確保のためである。

 この敵前強行上陸という困難な作戦に、第18師団が選ばれたのは、この師団が日本軍の中ではもっとも戦闘経験を積んでおり、敵前上陸作戦という困難な戦闘の、幾多の経験を有するからであった(第18師団は1937年、杭州湾上陸、38年1月以降、杭州付近警備、同10月からバイヤス湾上陸・広東攻略戦に参加という経験をもっている。『土と兵隊 麦と兵隊』(社会批評社刊)の著者・火野葦平の所属していた部隊でもある)。

 死傷者続出のコタバル上陸

 12月8日午前0時(日本時間)、上陸部隊はコタバル沖の3隻の輸送船から、上陸用舟艇に乗船開始。舟艇は大発動艇など53隻で、一度に2千人が上陸した(部隊は第18師団・佗美支隊の第23旅団司令部+歩兵第56連隊他―歩兵3個大隊、砲兵1個中隊などの兵員5千503人)。

 上陸部隊の舟艇は、左第一線に第1大隊、右第一線に第3大隊が配置され、岸から千メートルで横一線に展開した。

 上陸部隊が、上陸地点の海岸線から4~500メートルの距離に到達したとき、英軍の機関銃・火砲の一斉射撃が始まった。

 この佗美支隊の上陸の援護のために、陸軍飛行隊は、タナメラなどの航空基地を爆撃した。海軍も明け方には、艦砲射撃で援護した。コタバル攻撃を控えたのは、誤爆を避けるためだったという。 

 上陸地点には、水際50~70メートル付近に鉄条網を張り巡らせた強固な陣地が構築され、海岸地帯には地雷が敷かれ、その後方には散兵壕やトーチカが設置されていた。

 上陸部隊は、この防御陣地を越える間に英軍の激しい射撃に遭った。戦死傷者多数を出す激戦であった。

 だが、この第1次上陸部隊の後に、次々と上陸部隊が続き、次第に敵陣を突破していった。 こうして、翌日午後9時30分、日本軍はコタバル飛行場東側に突入し、英軍の飛行機や機関砲など多数を捕獲した。そして、部隊は続いてコタバル市の占領に突き進み、翌日11時30分、市を占領した。また、13日には周辺のタナメラ飛行場、クワラペスト飛行場をも占領した。

 英軍の航空攻撃で輸送船が撃沈

 12月8日、コタバル付近の守備にあたっていた英軍の兵力は、インド兵を主力とする英第8旅団(第10バルチ連隊第2大隊、第17ドグラ連隊第3大隊、第13国境軍第1大隊)の合計6千人であった。このインド兵を主体とする英軍の脆弱性が、この戦争に共通する問題として戦争の初期段階で露呈したのだ。

 また、英軍の航空部隊としては、ロッキード・ハドソン双発偵察爆撃機1個中隊(12機)の一部がコタバル航空基地に派遣されていた。

 このうち英軍機2機は、12月8日午前4時過ぎ、日本軍の3隻の輸送船を攻撃した。そして、この英軍機から投下された爆弾の1発は、輸送船・淡路山丸の船首付近に命中し爆発した。

 この爆発によって前部甲板は一瞬にして火の海となった。この淡路山丸とともに、輸送船・綾戸山丸も敵機2機の攻撃を受け、爆弾が命中した。また、3隻の輸送船のうち残る佐倉丸も、2発の小型爆弾の直撃を受けたのである。

 日本軍のコタバル上陸作戦は、表向きは成功を謳われているが、実際は輸送船1隻損失の他、上陸用舟艇の過半数を損失するという大損害であった。また、上陸部隊の兵士はもとより、輸送船の乗組員や船舶砲兵など合計1千100人もの戦死傷者が出るという大損害を受けたのだ(コタバルの上陸軍兵士5千503人のうち、戦死傷者の総数は約700人である。また、日本軍の指揮官は、第25軍司令官・山下奉文中将、第18師団師団長・牟田口廉也中将[広東地区に駐屯]、近衛師団師団長・西村琢磨中将[仏印駐留]、第5師団師団長・松井太久郎中将[上海地区駐留]、他に戦車団1[連隊4]、独立自動車連隊1・大隊8・中隊12、第2鉄道隊他。軍作戦参謀には、辻政信などがいた)。

山下司令官のモニュメント(シンガポール・セントーサ島の戦争博物館)

●日本軍の奇襲成功と英軍の作戦

 英軍の作戦計画

 ところで、このマレー半島に奇襲上陸する日本軍の攻撃を、英軍はどのように予測していたのだろうか。

 日本軍が中国の上海などから南下しているという情報に直面した英軍は、すでに1941年11月、マレー軍司令官に対し「マタドール作戦」(日本軍のマレー上陸に先立ち、機先を制して南タイに出撃する作戦)の準備を指令している。このマタドール作戦発動の遅れなどはここでは省くが、いずれにしても英軍は、この段階でマレー東岸の部隊に第2戦備態勢を指令し、日本軍を迎え撃つ態勢に入ったのである。

 マレー英軍の司令官パーシバル中将は、日本軍の重点的攻撃目標が、ケダ州(タイ国境近く)の飛行場、およびシンゴラ―パタニ(タイ領)、そしてコタバルであることを予測していた。だが、この英軍司令官の正しい予測を、本土の英軍首脳は後景化させ、マレー半島防衛を弱体化させてしまうのである。

 英軍の防備と兵力

 英軍のマレー防衛の主力は、3個師団だ。これは英軍第3軍団(第9インド師団・第11インド師団)、オーストラリア第8師団からなる。この正規軍に義勇軍を加えて、総兵力は約8・9万人である(この中には、シンガポール要塞部隊の第1・第2マレー旅団なども入る)。

 このうちの第3軍団の主力は、マレー北部のジットラ陣地およびコタバル、クワンタン東海岸付近を防備していた。

 そして、最大の地上の激戦が予想されるジットラ陣地(タイ国境近く)には、第11インド師団が配置され、この陣地には多数のコンクリート製機関銃座が造られていた。

 また、航空兵力は九つの航空基地に282機を配備していたが、このうち戦闘機は108機に過ぎず、しかも旧式機が多いというものであった。この航空部隊は、乗員の訓練も不十分であったという。

 海軍兵力は、英東方艦隊の主力戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋艦レパルス(12月2日シンガポール到着)などに加えて、巡洋艦3、駆逐艦4、砲艦3、仮装巡洋艦2の、陣容を誇っていた。

 しかし、英軍の最大の弱点は、防御の準備不足もさることながら、その陸上兵力が混成部隊、しかも主力が植民地の兵士たちであったことだ。

 この内訳は、イギリス人兵士・1万9600人、オーストラリア人兵士・1万5200人、インド人兵士3万7000人、現地編入アジア人兵士・1万6800人である。要するに兵士の過半数が、植民地の兵士たちであったということだ。

●英東方艦隊の壊滅と日本軍の制海権・制空権確保

 英海軍・空軍の壊滅

 このマレー半島上陸戦闘とともに、他方では、このマレー半島沖での日英の海戦が始まっていた。

 12日10日、英国主力戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルス、そして4隻の駆逐艦はシンガポールを出港し、コタバル、シンゴラなどへ上陸中の日本軍への攻撃作戦を開始すべく北上した。

 これに対し日本海軍は、同日の11時45分頃、英軍艦隊をマレー半島東海のクワンタン沖で発見した。そして、直ちに日本航空戦隊の雷撃隊が攻撃開始。日本海軍機の猛攻の中で、英軍のレパルスは14時03分、あえなく沈没し、また、戦艦プリンス・オブ・ウェールズも、14時50分に沈没した。

英戦艦プリンス・オブ・ウエールス

 こうして、英東方艦隊は、わずか1時間半あまりの戦闘の間に壊滅したのだ。これは、イギリス海軍史上、最大の敗北と言われている。

 これはこの太平洋戦争において、次には日本海軍が繰り返す「上空援護なしの艦隊戦」という近代戦・近代航空戦の軽視が招いた事態でもあった。

 この海戦とともに、空でも激しい航空戦が展開されていた。日本の陸海の航空部隊は、コタバルなどの英航空基地を先制空襲し、開戦2日後にはマレー英空軍の3分の1を撃破していた。その結果、英軍は主力の航空機をシンガポールに待避させてしまったが、その英軍の航空基地には、逐次、日本軍の航空部隊が進駐していくことになった。

 こうして、開戦から1カ月経った、42年1月初旬の英航空部隊は、マレー半島南部の基地やシンガポールの基地に、戦闘機約60機・爆撃機約20機を残すのみとなった。マレー半島の制空権・制海権は、完全に日本軍の手に落ちたのだ。

(マレー半島は、南北1600キロ、シンゴラからジョホール・バルへは、約1千キロだ。半島の大半はジャングルに蔽われ、降雨量も多く河川が多い。東海岸は未開発であるが、西海岸は道路・鉄道が発達している。この地形から日本軍は、東海岸に上陸した後、半島を横断し、西海岸を南下するという作戦を採った。)

●ジットラ攻防戦と銀輪部隊

 タイ上陸部隊の進撃

 開戦後、コタバル上陸とともに、マレー半島東海岸のタイ領シンゴラに上陸したのは、第5師団主力で、この部隊は8日、午前3時40分~午前4時05分の間、上陸を開始した。

 また、同じタイ領のパタニへは、同師団の安藤支隊が午前4時30分に上陸した。いずれの部隊へもタイ側からの抵抗はほとんどなかった。

 そして、これらの部隊は、上陸後、タイ―マレーの国境地帯へ侵攻した。

 ここで最大の激戦が予想されたのは、タイ国境から20キロ南のジットラで、「ジットラ・ライン」と呼ばれる地点での戦いであった。

 この地点は、事実上、上陸した日本軍と英軍との最初にして最大の攻防戦である。

 英軍は、この場所に堅固な陣地を構築、防御ラインを敷いた。この防御ラインは、ジャングルと湿地に囲まれ、鉄条網や戦車壕・地雷・トーチカで固められた一大陣地であった。

 そして、この地点の英軍兵力は、インド第11師団・第6・第15旅団の歩兵9個大隊、約5千400人だ。これには、戦車90両、対戦車砲54門もひかえていた。

 しかし、英軍はマタドール作戦を優先したため、つまり日本軍の上陸に合わせてタイ領への進撃を行ったために、このジットラの防御陣地構築は不十分なものであった。

 また、英軍が「1カ月は持ちこたえる」として築城していたトーチカなどの防御陣地は、ほとんど役に立たなかった。というのは、この備えていた陣地から英軍は、タイ国境付近まで出撃し、戦うことになってしまったからだ。

 この結果、「難攻不落のジットラ・ライン」と呼ばれていた防御線は、12月12日、日本軍に急襲され、いとも簡単に突破された(このタイ国境からジットラに通じる道路には、役に立たなかったトーチカの数多くが残されているという)。

 しかし、英軍の抵抗も必死で、この戦闘で日本軍は、戦死者27人・戦傷者83人、合計110人の損害を出した。英軍もまた、戦死者約500~千人を出したという。

 銀輪部隊・自動車部隊の進軍

 このジットラ・ラインを突破した日本軍は、銀輪部隊・自動車部隊を中心に約1千キロの道のりを南へ南へと、戦闘を繰り返しながら突き進んでいく。

 主力部隊は、ペナン―イポー―クアラルンプールなどのマレー半島西海岸を縦断しながら、1月31日、ジョホール・バル(マレー半島の最南端)を占領した。

 また、近衛師団は、タイから自動車で輸送され、激戦を繰り返しながらジョホール・バルに進軍、そして、第18師団の主力部隊も、遅れてジョホール・バルに到着した。

 ところで、このマレー半島を縦断する日本軍は、いわゆる「銀輪部隊」として有名だ。自転車にまたがって進軍する兵隊たちの写真は、一度は目にしたことがあるだろう。本文の165頁などには、その風景も写されている。

 自動車部隊であった日本軍

 だが、マレー半島に上陸した日本軍は、この銀輪部隊だけが主な輸送手段ではなかったのだ。この上陸部隊は、日本軍には非常に珍しい自動車部隊―「機動師団」でもあったのだ。

 これまで、これらの日本陸軍の第5師団、第18師団などの部隊の移動は、中国大陸においては、徒歩が主であり、唯一の機動力が馬であった。

 火野葦平の「兵隊小説」などにおいても、あの広い大陸をひたすら馬とともに歩いて行軍する、兵隊たちの姿が描かれている。しかし、大本営は、このマレー作戦においては自転車のみか、自動車を主体とした「機動部隊」を編成した。

 1個連隊には、約50両のトラックが配置され、砲兵や輜重兵は、もっぱらトラックが移動手段となった。また、師団全体では約500両の自動車と約6千台の自転車が配備されていたという。これにプラスして、タイからの鉄道輸送もなされた。

 こうした機動力をもとにして、マレー半島の進撃は、英軍の防御態勢構築を許さない、「前進と突破」を繰り返す、急襲作戦として行われたのだ。

(マレー作戦の概況。作戦日数55日、機動距離千キロ、英軍遺棄死体約5千人、捕虜約7千800人、捕獲自動車2723両、撃墜飛行機238機・地上撃破133機、破壊艦艇3。日本軍第25軍の損害・戦死1535人、戦傷2257人、飛行機自爆23機他66機。『戦史叢書 マレー侵攻作戦』朝雲新聞社)

英軍のシンガポール防御態勢

 日本軍の焼夷弾による空襲と砲撃

 日本軍のシンガポールへの空爆は、太平洋戦争の開戦とともに始められた。最初の爆撃は、1941年12月8日午前4時だ。そして、日本軍がマレー半島を南下していくにしたがって、シンガポールへの空爆は激化していく。

 日本軍の上陸部隊が接近する、1942年1月からシンガポール市街へは、いよいよ日本軍の空襲が拡がっていく。これらの空襲では、あの焼夷弾が使用され(日本本土空襲用の、米軍の焼夷弾と同じ)、制海権・制空権をほとんど掌握した日本軍は、シンガポールの市街地とともに、重要施設(特に石油貯蔵施設)への空爆も開始した。

焼夷弾を投下した旧日本軍のシンガポール爆撃

 そしてまた、シンガポール上陸をひかえた日本軍は、この空襲だけでなく、ジョホール・バルからの野砲による砲撃も始めた。

 この砲撃を含め、この時期のシンガポールへの砲爆撃による死傷者は、1日に千人に達したとされている。とりわけ、この砲爆撃の被害は、マレー半島からの避難民も含めて、シンガポールの人口が急速にふくれあがっていた(70万人から100万人以上)ところに行われ、拡がっていった。

大粛正のもと、華人約5万人が旧日本軍に虐殺された
シンガポールの中心に建立された「日本占領時期至難人民記念碑」

 要塞島・シンガポール(以下略)


そし旧日本軍は戦犯として処刑された(シンガポール日本人墓地)
その墓地の片隅にひっそりとからゆきさんらの質素な墓がある

私は現地取材を重視し、この間、与那国島から石垣島・宮古島・沖縄島・奄美大島・種子島ー南西諸島の島々を駆け巡っています。この現地取材にぜひご協力をお願いします!