ヒロシマ・ナガサキに原爆を投下したテニアン島の現在
●「テニアン戦」後、全島は日本爆撃の基地に――ノースフィールド跡の原爆ピット
ふたつの原爆ピット
テニアン北部地域の、ノースフィールド飛行場跡の北側には、現在、原爆ピットと呼ばれる記念碑が置かれている。ちょうど、旧日本海軍のハゴイ飛行場があった地域だ。(表紙写真)
この原爆ピットは、言うまでもなく、ヒロシマ―ナガサキに投下された原子爆弾の搭載場所を示すものだ。
日本から約2400キロ離れたテニアンのこの地域から、1945年8月5日、ヒロシマに向けエノラ・ゲイと呼ばれるB29が発進、9日、ナガサキに向けボックス・カーと呼ばれるB29が発進、原子爆弾を投下した。
この原爆で、ヒロシマにおいては約15万人、ナガサキにおいては約8万人が一瞬のうちに死亡した。人類が、核という皆殺し兵器を手に入れた瞬間であった。この世の地獄であった。
リトルボーイとファットマン
さて、原爆搭載地点を示すこのふたつの場所には、それぞれ深い穴が掘られ、底には原子爆弾を入れた穴が、実物大で造られている。
なぜ、このような縦穴が掘られたのか。その理由は、原子爆弾は大変重く、爆撃機に搭載するためには、下から吊して引き上げるほかになかったからだ。
ヒロシマに投下された原子爆弾は、「リトルボーイ」と呼ばれ、その重量は4・1トン、ナガサキに投下された原子爆弾は、「ファットマン」と呼ばれ、その重量は4・5トン。
原爆投下の正当化
ところで、原爆ピットのそれぞれの碑の前には、ほぼ同様の碑文が書かれている。ヒロシマの碑文には「NO.1 BOMB LOADING PIT ATOMIC BONB LOADING PIT」という文の後に、ヒロシマの原爆は、米陸軍第509混成団の機長ポール・ティベッツ大佐により操縦され、8月6日に投下、などの事実が連ねられている。
ところが、ナガサキの碑文には、文節の最後に、「THE JAPANESE EMPEROR WITHOUT HIS CABINETS CONSENT, DECIDED TO END THE PACIFIC WAR」と書かれている。
直訳すれば、「日本国天皇は、彼の内閣の同意なしに、太平洋戦争の集結を決定した」と。
わざとらしくこの碑文の最後に、この文章が書かれたのは、「原爆の投下が戦争を終わらせた」という、原爆投下正当化論を強調するためのものではないか。
この原爆投下正当化論を肯定するかのように、太平洋戦争終結60周年を記念するテニアンの行事では、あのエノラ・ゲイの機長であったポール・ティベッツを招いて演説させたという(この日に合わせて、埋められていたピットを掘り返して公開)。
その式典に出席した一参加者は、ティベッツの発言を以下のように記録している。
「最後にティベッツが車椅子から立ち上って、とても長い話をした。89歳になる彼はパイロットか航空技術者らしい実直な話し振りで、広島に原爆を投下した当時を時には笑いも交えて克明に語った」
このティベッツの上官、原爆投下の現場の最高指揮官カーチス・ルメイ少将(当時のグアム基地司令官)が、戦後、「航空自衛隊の育成に功績があった」として、天皇から「勲一等旭日大綬章」を授与されたのは、皮肉というか、愚かしい日本国の姿を示しているのではないだろうか。
6本の滑走路の建設
ところで、このノースフィールド飛行場は、原爆投下を含めて、日本本土爆撃の一大拠点であった。このテニアンという巨大航空基地を確保したことで、米軍はB29の日本爆撃を常時可能とすることができたのだ。
このため、上陸後、米軍は直ちに日本軍の第1飛行場(ハゴイ飛行場)を占領、その2日後には使用可能の状態にした。
この飛行場はまた、修復されるだけでなく、大きく拡張された。その結果、この北部地域には、長さ2600メートル、幅60メートルの4本の滑走路が建設された。また、南部地域のウェストフィールドには、2本の滑走路が造られ、まさにテニアンは、米軍においても「不沈空母」となった。
米軍は、なぜ、テニアン島を重視したのか。それは日本まで約2400キロという、距離もさることながら、この島の地形に重要性を見いだしていたのだ。
つまり、この平坦な島は、巨大な飛行場を急いで建設するのに最も適していた。
そして、米軍は、その巨大な航空基地を早急に造る必要があった。それは、日本を壊滅に追い込むためには、彼らは日本本土を徹底に爆撃する必要があると認識していたからだ。
その爆撃地点は、軍需工場などの軍事拠点だけとは限らなかった。アメリカの戦争指導部は、「本土決戦」を叫び、「玉砕」「自決」を主張する日本の支配層、とりわけ軍部首脳たちを徹底して威嚇する必要があると考えていた(都市爆撃は、ジュネーブ条約違反である。この国際法違反を米国も日本も行った)。
こうして、このテニアンの基地から、B29の大編隊が日本爆撃に頻繁に出撃した。そのひとつが、あの1945年3月10日の東京大空襲であった。
「超空の要塞」と言われたB29は、約5230キロの航続距離(最大積載時)を誇っていたが、これはちょうどテニアンと日本の間を往復することができたのである。
つまり、この米軍によるテニアンの占領、そして、サイパンの占領こそ、太平洋戦争での日本の敗北を戦略的に決定づけたということなのだ。
米軍基地はジャングルに埋もれていた――ノースフィールド跡の米軍飛行場跡
任務が終了した飛行場
当時の写真にあるように、1944年から45年にかけて、ノースフィールド飛行場は、大変な活気を呈していた。
ここだけで、なんと291機のB29が配備されており、その乗員や支援要員の、およそ2万人の兵士たちがこの地で任務に就いていたのだ。
飛行場は、このテニアン北部一帯の広大な地域を占拠していた。そして、ここには米本土からの物資を供給するために、テニアン港からの長い道路が造られた。
だが、太平洋戦争の終了とともに、この超巨大飛行場は、まったくの用無しとなった。こうして、B29も、兵士たちも、本国へと引き揚げて行ったのだ。1947年3月、最後の米軍の航空機が飛び去った。
ジャングルに埋もれた滑走路
いまこの地を歩くと、「兵どもの夢の跡」という表現が、ピッタリと当てはまる寂れた土地だ。周りはひっそりとしており、風の音しか聞こえない。人影はまったくない。
そして、この周辺をいくら歩いても、4本の滑走路のうちの2本の滑走路をまったく見つけることができない。探そうにも、ジャングルに阻まれる。滑走路は、完全にジャングルに埋もれてしまっているのだ。
滑走路として使われているという残りの2本も、その一部はかなりの雑草に覆われている。実際に使われているようには見えない。
米海軍は、この滑走路を年に1~2度、演習・訓練などで使用しているというが、この飛行場が本当に必要なのか、非常に疑問だ。
●しかし、テニアン島は今も巨大な軍事基地だった―― 島の70パーセントを借用する米軍
50年間の米軍へのリース
戦後、この荒れるにまかせていたテニアンの飛行場の再使用が検討され始めたのは、1970年代末のことである。
ちょうどこの時期は、ベトナム戦後の世界的な米軍再編の時期にあたり、アメリカは旧ソ連のアフガン侵攻を契機として、冷戦の強化―対ソ核戦略の強化に乗り出したのだ。テニアンの広大な遊休基地は、その重要な検討の対象となった。
そして、この1970年代にサイパン、テニアンを含む北マリアナ諸島は、アメリカとのコモンウェルスを取り決める。1977年に「北マリアナ諸島コモンウェルス憲法」が採択され、1986年、北マリアナ諸島はアメリカの自治領となる。
この「北マリアナ諸島自治領」樹立の盟約では、北マリアナ諸島の外交・防衛に関するアメリカへの権限委譲とともに、アメリカは「軍事施設の借地代として年間1952ドルを支払う」(当時の金額)という契約もなされる。
ところで、ここで結ばれた借地契約についてであるが、これはテニアンでは島の3分の2の土地を占めるという、相当厳しいものとなった。
また、その使用期限も50年間とされ、必要とあれば、あと50年は延長できる、とされた。
まさしく、アメリカは、テニアン島の永久基地化を図ったのだ。
島の3分の2の土地が米軍に
さて、このテニアン島の3分の2を占めるという米軍の基地について、詳しく見てみよう。
下の地図は、2009年11月、米海軍が発表した「沖縄からグアムおよび北マリアナ・テニアンへの海兵隊移転の環境影響評価/海外環境影響評価書ドラフト」という文書に掲載されたものだ。つまり、海兵隊の沖縄からグアム移転にともなう、北マリアナ諸島の環境評価の報告書である。
この地図から明らかになることは、もともと米軍はテニアンとの間で、EMUA(排他的軍事使用地域)3065ヘクタール、LBA(賃貸借契約付売却地域)3148ヘクタール、合計してMLA(軍事地域)6213ヘクタールを貸借していたのである。
この米軍の占有地域は、テニアン島全体の73・3パーセントにあたり、米軍占有地を除いた私有地は、26・7パーセントしか残らないという、驚くべき事実である。
しかし、これではあまりにも島の発展を阻害すると思ったのか、3148ヘクタールがリースバックされた。
とは言っても、このような米軍基地が、島の発展を大きく阻害してきたのは間違いない。現実に、米軍の「管理地域」では、建物の設置や畑の開墾が一切禁止されてきたのである。
テニアン島を上空から見ても、この島にはいかに人家が少ないか、驚くほどだが、この理由は米軍管理下の、厳しい現実にあったということだ。
海兵隊の移転で再強化
ところが、こうした状況にあるテニアン島は、再び米軍基地の強化という現実のもとに置かれている。
この背景にあるのは、あの米海兵隊の沖縄・普天間基地からのグアム移転計画だ。
この計画は、海兵隊のグアム移転とともに、その移転する海兵隊の訓練・演習・実弾射撃の基地として、テニアン島を使用することを検討している(頁左掲載の「環境評価書」参照)。
さて、この評価書は、テニアンにおける米軍基地の使用状況、占有状況などを紹介しながら、「テニアンはMEU(海兵遠征部隊)の地上訓練、航空訓練、非戦闘員の避難訓練、飛行場占領訓練、遠征飛行場訓練、そして特殊戦闘活動などの航空機を使用した訓練が可能」とする。
そして、その訓練目的は、「移転してくる海兵隊の個人から中隊レベルの維持訓練」、「海兵隊の戦闘即応能力を維持する訓練」であり、「グアムに駐留する海兵隊の戦闘即応能力を維持するために不可欠」である、としている。
ここで強調すべきは、米軍がテニアンにおいて計画しているのは、海兵隊の部隊としての移転ではないということだ。部隊としての移転は、グアムへ集中し、訓練・演習をテニアンで行う、ということなのだ。つまり、テニアンにおいては、環境の破壊だけが伴う。
実際に評価書は、「訓練地は、実弾射撃レンジとして整備」として、実弾射撃の演習地としても、テニアンを位置付けている(本書刊行以後、日本政府・自衛隊によるテニアン基地の、米軍との共同使用が決定された。自衛隊もまた、テニアンの再軍事化に手を貸している!)。
テニアンを世界的平和センターに
テニアンの経済的現実は、この海兵隊の訓練基地や、日本の政党の一部が提案している普天間飛行場自体のテニアン移転が、大変魅力的に見える。
だが、人類がかつて経験したことのない戦争の惨禍の地・テニアン――サイパン島は、この基地の存在とはまったく相容れないのではないか。これらの島に求められるものは、人類の「平和のための戦争遺産」・世界的な平和センターではないだろうか。
補足(『サイパン&テニアン戦跡完全ガイド』から)
●テニアンでも起きた「集団自決」の惨劇
テニアン・スーサイドクリフ――テニアンの「バンザイ岬」
テニアンの「スーサイドクリフ」(自殺の崖)と呼ばれる場所は、島の最南端、テニアン港・サンホセから南へ車でわずか20~30分の距離だ。
道路から左手には、カロリナスの高地が広がり、右手には断崖が続く。その道路の終点が、スーサイドクリフだ。
この道路の終点は、およそ50メートルぐらいの断崖絶壁になっており、その下には荒々しい波、深い濃紺の海が広がる(下の写真参照)。
周辺は、恐ろしいほどの静寂に包まれ、人影はまったくない。激しい波の音だけが響く。
この道路の終点の断崖と、カロリナス台地から直角に海へとつながる台地の上が(高さ150メートル)、テニアンのスーサイドクリフだ。
次々と海へ飛び込む
1944年7月下旬、日本軍の全面的な敗勢の中で、敗残の兵士たちは続々と島の南部・カロリナス台地を目指して撤退していく。
この日本軍の将兵たちとともに、ひしめくように島の住民たち、民間人たちも、ただただ、カロリナス台地を目指した。
そして、最後にこの断崖絶壁の地に追い詰められた住民たちは、次々と両手を挙げ「バンザイ」の格好で荒れ狂う海の中に身を投じたのだ。こうしてこの地は、スーサイドクリフ、テニアンの「バンザイ岬」とも呼ばれるようになった。
鎮魂不戦之碑
現在、カロリナス岬のこの広場には、数多くの慰霊の碑が建つ。
だが、1978年、「東京空襲を記録する会」の人々が、「不戦之碑」を建立するまでは、何もない荒れ地であった。戦後30年以上にわたってである。つまり、サイパンと違い、ここテニアンのバンザイクリフは、人々に忘れ去られていたということだ。
下の写真は、「沖縄の塔」である。
ここスーサイドクリフの慰霊碑の中でも、ひときわ大きいものがこの沖縄の塔である。テニアンには、多数の沖縄人たちが砂糖キビ耕作の労働者・小作人として移住していたと言われているが、彼らの犠牲もまた、もっとも大きかったと思われる(約2千人が自決したという)。現在、沖縄からは、定期的に当地を訪れ、テニアン市長を含む現地の人々の参列のもと、慰霊祭を催している。
次々と手榴弾が破裂
戦前のテニアン移住は、沖縄人がもっとも多かったが、沖縄外の日本全国からも多くの人々が新天地を求めて移住してきた。それは、当時の日本の民衆が、ギリギリの貧困生活を強いられていたからであった。
福島・会津地方からも、昭和の初め、約2千人の人々がテニアンに移住していった。ほとんどが、農村の貧しい人たちだ。これらの人々に対して、南洋興発は「2年間の食費を出す」という破格の条件を出してきたという。
この「甘い言葉」につられ連れて行かれたところは、実際は南洋興発の社員以外は小作人扱いで、生活は大変だったとも言われている。だが、常夏の島は、寒い東北地方の人々にとっては、「この世の天国」にも映ったという。
しかし、テニアンは、「この世の天国」でも、新天地でもなかった。この人々にある日、突然襲いかかり、地獄の底に突き落としたのがテニアン戦であった。
伊藤久夫さん(74歳)もその会津からテニアンに家族で渡り、運命に翻弄された一人だ。生き残った久夫さんは、このときの様子を次のように語る(NHK「シリーズ証言記録 市民たちの戦争」『楽園の島は地獄だった~テニアン島』からの要約)。
米軍のカロリナス台地での掃討作戦が始まると、住民たちはカロリナスの洞窟から洞窟へと逃避行を続けた。
私たちの家族も、5つの家族と一緒にこの逃避行の中にいた。しかし、私たちのいた洞窟に、米軍はだんだんと近づいてくる。10~20メートルまで近づき、「出てこい、出てこい」と言ってきた。だが、誰も聞く耳を持たない。捕虜になることを恐れていたのだ。
このとき、次第に追い詰められた人々の「海ゆかば」を歌う声や、「天皇陛下、万歳、万歳」を叫ぶ声が聞こえ始めた。手榴弾の爆発の音、あちこちに白い煙があがる。煙がおさまると、みんなが死んだのがわかった。
母も妹もこの手で殺した
仁瓶虎吉さん(83歳)も、このシリーズで証言する。当時、彼は18歳だった。彼の家族も、カロリナス台地の洞窟のひとつに逃げ込んでいた。米軍の洞窟から洞窟へと続く掃討戦の中で、あちこちから自決の叫びが聞こえ、彼の家族も覚悟を決めていった。
母は私に、「日本兵が残していった銃で射殺してほしい」と懇願してきた。私は「よし、わかった。長い間ありがとうね、ありがとうね」と手を合わせた。そして、「いくよ」と言って、母の心臓を狙い、バーンと銃を撃った。母の胸からジッーと血が出てきた。でも母は死なない。隣にいた父が額を押さえて、「ここを狙え」と言い、撃つと、母はガクンと頭をたれた。
これを見ていた9歳の妹の君栄が、今度は自分の番だと、母が死んだところで手を合わせている。そして、私が銃を構えたら、「お兄ちゃん、ちょっと待って。水が飲みたい」と言った。
こんな所に水があるわけがない。だが、妹がかわいそうだと思って、銃を置いて海岸の岩の上にわずかに溜まっている水を汲みにいった。水筒のフタで、2杯ぐらい飲ませた。
そうすると、妹は「うまいよ、お兄ちゃん」と言った。そして、「もういいわ、撃ってよ、兄ちゃん。お母ちゃんの所に行くから―」と。
妹が死んだあと、虎吉さんは持っていた手榴弾で自決しようとした。だが、手榴弾は不発だった。この直後に米軍に発見され、彼は捕らえられた。
森山紹一さん(85歳)も、証言する。
このとき、彼は家族8人で、カロリナス台地の洞窟のひとつに隠れていた。米軍が次第にこの地へ迫ってくる中で、洞窟の中は兵隊も住民も一緒で、同じところに潜んでいた。
そのとき、生まれたばかりの弟が泣き出した。米軍の砲撃で耳をやられ、聞こえなくなっていたようだ。そして、泣き出しているところに兵隊がやってきて、「黙らせろ、できないなら出せ。オレが殺してやる」と言ってきた。私はこれはいかんと思い、「母さん、黙らして」と叫んだ。そして、母は弟の口を強くふさいだ。弟は泣きやんだ。窒息死したようだった。
「自決」は軍命令だった
「市民たちの戦争」の証言は、続く。
佐藤明男さん(当時10歳)は言う。
テニアンでの戦争が始まる直前、学校には住民たちが何百人も集められた。そして、海軍の中佐と思われる人物が校庭の演壇上に登り、「敵が攻めてきたら、皆さんは死んでください。捕まったら、大人は残虐な行為をされ、メダマ、チンポをもがれ、殺される」と1時間も話した。
そして、最後に集まった住民たちは、「海ゆかば」を歌い、金縛りにあったようだった。
「集団自決」は強制された
テニアン戦を体験した将兵の手記や戦記は、いくつか出版されている。そのほとんどは、テニアン戦においては民間人の保護が行われた、軍当局は角田中将を始め、米軍への投降を勧めた、という主張で貫かれている。
だが、実際には、この主張がいかに間違ったものであるかは、テニアン戦で生き残った多数の住民たちの証言で、明らかになっている。
そしてまた、すでに紹介した政府・大本営の、「マリアナ地区軍民協定」、「南洋群島戦時非常措置要項」による民間人の全面的動員の決定が、こうした住民の「集団自決」を導いたことも明白である。
つまり、軍に動員され―あるいは、義勇隊として、あるいは軍属として動員された住民たちは、軍を構成する一員として位置づけられ、日本軍の将兵と同様に、「戦陣訓」を守ることを強制されたのだ。
もし、仮に住民たちが、捕虜になる道を選んだとすると、あるときは「スパイ」として軍に処断され、あるときは、「後ろから」軍に撃たれることになったのである。
こうして、住民たちは、ある者は軍から渡された手榴弾で家族ごと「自決」し、そうした武器さえ持たない者は、スーサイドクリフの上から、あの荒々しい海へ飛び込んでいったのだ。
捕虜収容所
しかし、このような「集団自決」の道を拒み、当然にも「捕虜」の道を選んだ住民たちも多数存在した。
テニアン戦の終了とともに、米軍は、艦上、あるいは洞窟の前で拡声器から住民たち(将兵たちにも)に懸命に投降を呼びかけた。
この結果、米軍に保護され、収容された住民たちは次第に増えていった。島の中部・チューロ地区の元南洋興発直営農場に開設された収容所には、1945年12月末、日本人9500人、朝鮮人2679人の合計1万2179人が収容されていた(戦前の人口は約1万5700人。民間人の死者は、約3500人。だが、未だ詳細は不明である。左頁の写真は、当時の収容所の風景)
そして、日本軍の将兵たちも252人が、旧海軍送信所跡に設営された捕虜収容所に収容された。だが、戦闘終了後においても、なお3千人近い将兵が島の洞窟などを彷徨っていた。彼らの最後の投降は、1年後の1945年12月末であった。あの大場大尉を招いて、ようやく説得にあたったという。
以上の記述は、拙著『サイパン&テニアン戦跡完全ガイド』からの引用の一部である。
●参考資料
『サイパン&テニアン戦跡完全ガイド』
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784916117915
私は現地取材を重視し、この間、与那国島から石垣島・宮古島・沖縄島・奄美大島・種子島ー南西諸島の島々を駆け巡っています。この現地取材にぜひご協力をお願いします!