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自衛隊の南西シフトの始動と態勢⑤

ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会 メルマガ第58号
「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」 賛同者・呼びかけ人の皆さま    いつも活動をご支援いただき誠にありがとうございます。

 今回のメルマガは当会オブザーバー小西誠さんからの第5回目の寄稿です。東西冷戦の終結後、自衛隊がどのような過程をたどり、現在の南西諸島軍事強化にいたっているのか、防衛大綱、陸自教範「野外令」での離島防衛―島嶼防衛戦、上陸作戦などの策定から具体的分析をくわえていただきました。ぜひお読みください。後半は今週の南西諸島軍事強化トピックです。
先週の動きに対して、発起人の新垣邦雄さんからコメントを寄せていただきました。日々刻々と動く状況を整理し、把握する上で、こちらもぜひお読みください。

 ⑤自衛隊の南西シフトの始動と態勢

 ●南西シフトの始動
 創設以来、一貫して「ソ連脅威論」によって戦力を見積もり、増強してきた自衛隊は、1989~91年の東西冷戦の終了の中で、仮想敵を喪失してしまった。この状況の中、アメリカを中心とした世界は、「平和の配当」を求める人々によって、大幅な軍縮を迫られた(米軍は軍事費25%の削減)。しかし、日本では、軍縮の声はほとんどどこからも聞こえず、それどころか、軍事費の増額さえ行われたのだ。

 軍隊は、いずれの時代も自らの存続のため、「新たな脅威」を見いだす。その典型が東西冷戦終焉後の、1990年代初頭のアメリカによる「地域紛争論」だ。
 確かに、このアメリカの「地域紛争論」を利するような紛争が勃発した。1991年のイラクのクウェート侵攻――湾岸戦争である。まさしく、この戦争を奇貨として、米軍は息を吹き返したが、自衛隊もまた、「天佑到来」とばかりに軍事力の強化に突き進み始めた。

 1993~94年の「朝鮮半島危機」、96年の「台湾海峡危機」は、このような冷戦後に軍縮を強いられつつあった軍部勢力の「演出」であったと言っても過言ではない。
 それまで、戦後一貫して「北方シフト」態勢を敷いてきた自衛隊は、この東西冷戦後、「西方シフト」に転換し始めたが、その西方シフト――朝鮮半島危機への対処は、なし崩し的に変容していく。

 要するに朝鮮半島危機というのは、仮にその事態が生じたとしても、自衛隊の任務は、米軍の「後方支援」以上の仕事はないということであり、対ソ戦略で作られた強大な戦力を維持し、強化するには、北朝鮮の軍事力は、あまりにも非対称的戦力であった(1997年改訂日米ガイドラインによる「朝鮮危機」対処で具体化した自衛隊の新任務は、「武装難民に偽装した武装ゲリラ対処」という荒唐無稽の物語だ!)。

 この状況の中、当時、日本の支配層に広がったのが「日米安保体制の漂流」である。日米安保体制が対象とした「ソ連の崩壊」という状況は、いわゆる「仮想敵」を消失してしまったのであるから、当然、その存在意義は失われる。
 この安保体制の危機の中で、1996年、クリントン大統領と橋本首相(当時)の日米首脳会談で「日米安保再定義」が行われた。この「再定義」での大きな変化は、従来の日米安保の適用対象・範囲を「極東」から「アジア太平洋地域」へと拡大することにあった。つまり、戦後日米安保の最大の対象であったソ連が崩壊したことで、「極東」地域への安保適用は意味を喪失し、変わってその対象が「アジア太平洋」地域へと変質・拡大したということだ。このことは、以後、日米安保が世界大へ広がる大きな転機となったのである。

 こうした「日米安保再定義」に基づき、翌1997年「日米防衛協力のための指針」(日米ガイドライン)の改定が行われた。ガイドラインの改定は、1978年以来の出来事である。
 また、日米安保再定義に基づく新ガイドライン態勢下では、新たに「周辺事態対処」(アジア太平洋)を目的とする「周辺事態法」が制定された。この周辺事態法を始めとして、政府・自衛隊は、武力攻撃事態対処法などの有事3法を次々と成立させ(2003年)、以後、国民保護法・米軍行動円滑化法・捕虜取扱法などの有事関連7法を成立させていく。

 つまり、東西冷戦の終焉という事態――ソ連脅威の消失という事態(本質的には、朝鮮半島を含む東アジアでの脅威の喪失)を、アメリカは新たな「地域紛争の脅威」という「演出」で乗り切ろうとしてきたのだ(この周辺事態―地域紛争対処に、中国は対象化されていない。中国は、1970年代の日中・米中国交回復以後、アメリカにとっては「対ソ淮軍事同盟」として位置づけられた)。

 ●東西冷戦の終焉と西方・南西シフト
 ところで、2000年代初頭のこの情勢下、自衛隊が初めて「島嶼防衛」について公にしたのは、2004年に発行した陸自幕僚監部の『陸上自衛隊の改革の方向』と題する文書である。
 「改革の方向」は、東西冷戦後の自衛隊のあり方として、「部隊配置を見直し」し、「配備の地理的重点正面を北から南、東から西へと変更します。特に、北海道に所在する部隊の勢力を適正な規模にするとともに、日本海側及び南西諸島正面の配備を強化して、今まで相対的に配備の薄かった地域の部隊を充実します」と述べている。

 つまり、自衛隊全体が、北方重視戦略から西方重視戦略→南西重視戦略へと全面的に転換することを言明している。この文書には、「南西諸島正面の配備を強化」という以外の記述はないが、同年公開された「『防衛力の在り方検討会議』のまとめ」( 2004年11月。04年「防衛計画の大綱」の原案)という文書には、もう少し詳しい記述がある。

 「従来陸上防衛力の希薄であった地域(南西諸島・日本海側)の態勢強化」について、「沖縄本島は九州から約500㎞離れ、沖縄本島から最南西端の与那国島では約500㎞に渡り多数の島嶼が広がっている。また、南西諸島は近傍に重要な海上交通路や海洋資源が所在する戦略上の要衝となっている。海上交通路を確保するためには、南西諸島の防衛態勢を強化し、島嶼部への侵略等の多様な事態に的確に対処できる体制を構築することが必要」
 以上の「南西諸島配備」について記述されているのは、いずれも当時の防衛庁「内部文書」であるが、防衛庁・自衛隊が、 初めて公に「南西諸島配備」に触れたのが、2004年の「防衛計画の大綱」である。

 大綱はその冒頭のところで、「我が国に対する本格的な侵略事態生起の可能性は低下する」が、「新たな脅威や多様な事態に対応」することが求められているとして、この新たな脅威として、「弾道ミサイルへの対応」「ゲリラや特殊部隊による攻撃への対応」「島嶼部に対する侵略への対応」などを挙げている。そして、「島嶼部に対する侵略への対応としては、部隊を機動的に輸送・展開し、迅速に対応するものとし、実効的な対処能力を備えた体制を保持する」と、ここで初めて公に南西シフトを表明している。だが、この段階での島嶼部への対処方針は、部隊の常駐ではなく「機動的な輸送・展開」(有事機動展開)である。

 そして、このような「南西諸島防衛論」の全面化の背景説明として、いよいよ「中国脅威論」が唱えられ始められていく。また、新防衛大綱と連動して発表された、2005年の日米合意文書「日米同盟未来のための変革と再編」(沖縄米軍基地に関する「再編実施のための日米のロードマップ」も発表)では、この中国脅威論が一段と強調されていくのだ。

 さて、問題は、この時期における政府・防衛庁内の南西シフトに関する論議が、どこまで自衛隊の戦略・態勢に表れていたのか、ということだ。重要なのは、この表向きの論議とは裏腹に、自衛隊(制服組)の行動は、はるかに進んでいたということである。

 この表れの1つが、2002年3月に発足した、「西部方面普通科連隊」という部隊だ。この部隊は、長崎県の相浦駐屯地にレンジャー部隊を基幹として作られた特殊部隊、緊急展開部隊である。今日、この部隊は水陸機動団として知られているが、当初から「離島防衛」を目的として創設されたのである。

 ●陸自『野外令』の大改訂
 自衛隊の南西シフトの始まりを、いつからとすべきか。筆者は、その始まりを2000年における陸自の『野外令』の大改訂であると推定する。この陸自『野外令』には「離島の防衛」「上陸作戦」という、自衛隊においては耳にしたことのない、初めての作戦計画が明記されている。問題は、この陸自『野外令』の「離島の防衛」などは、何に基づいて策定されたのか、ということだ。



 これに関する、公開された文書は存在しないが、この『野外令』の根拠となったのは、97年の日米ガイドライン、つまり、米軍との共同の作戦計画が元となったことは疑いないだろう。いわば、日米安全保障協議委員会(2+2)や日米の制服組の協議などを経て、事実上の「対中国作戦計画」が計画され、策定されたのだ。そして、この陸自『野外令』改定自体もまた、そのような日米の制服組同士の協議の結果である。実際に、この2000年作成の新『野外令』には、本格的な「日米共同作戦」の規定が明記されている。

 さて、この『野外令』について、少し補足説明をしておこう。『野外令』は、陸自の全ての教範(教科書)の最上位に位置し、この教範に基づいて全ての教範が制定される。例えば、2013年制定の教範『離島の作戦』は、『野外令』の中の「離島の作戦」(第5編第3章第4節)の具体化である。
 教範『野外令』については、陸上幕僚監部による「野外令改正理由書」では、以下のように説明されている。「野外令は、その目的は、教育訓練に一般的準拠を与えるものであり、その地位は、陸上自衛隊の全教範の基準となる最上位の教範である」と。これは、旧日本陸軍でいえば『作戦要務令』にあたる。

 前記「改正理由書」は、その改定理由について、「旧令で主として対象としていた特定正面に対する強襲着上陸侵攻のほか、多数地点に対する分散奇襲着上陸侵攻、離島に対する侵攻、ゲリラ・コマンドウ単独攻撃及び航空機・ミサイル等による経空単独攻撃の多様な脅威への対応が必要になった」「離島に対する単独侵攻の脅威に対応するため、方面隊が主作戦として対処する要領を、新規に記述した」と特筆している。



 つまり、この『野外令』において、自衛隊創設以来初めて「方面隊が主作戦として対処」する「島嶼防衛作戦」が策定され、作戦任務化されたということだ。また、島嶼防衛作戦と同時に、これも自衛隊史上初めてという「上陸作戦」という戦略・運用が策定されたのである。
 このような『野外令』の「離島の作戦」においては、現在自衛隊「島嶼戦争」の作戦の根幹である「事前配置による要領」「奪回による要領」などの基本的作戦が、すでに明記されている。

 『野外令』のもう1つの重要な改定は、冷戦時代の自衛隊では概念さえなかった「上陸作戦」が策定されたことだ。これは、「奪回による要領」の中で明記されている。すなわち、「敵の侵攻直後の防御態勢未定に乗じた継続的な航空・艦砲等の火力による敵の制圧に引き続き、空中機動作戦及び海上輸送作戦による上陸作戦を遂行し、海岸堡を占領する」と。
 繰り返しになるが、重大なことは、こうした陸自『野外令』による離島防衛―島嶼防衛戦、上陸作戦などの策定が、先島―琉球列島への自衛隊配備の始まる 18年も前に、すでに日米の制服組の主導下において、東西冷戦後の新たな日米戦略として打ち出されていたということだ。


小西 誠(軍事ジャーナリスト・ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会オブザーバー)
*参考文献 『ミサイル攻撃基地化する琉球列島―日米共同作戦下の南西シフト』(小西誠著・社会批評社)
 https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784907127282





 

私は現地取材を重視し、この間、与那国島から石垣島・宮古島・沖縄島・奄美大島・種子島ー南西諸島の島々を駆け巡っています。この現地取材にぜひご協力をお願いします!