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猫たちも、犬たちも、馬たちも、全て戦争に動員された!

●猫たちも、犬たちも、馬たちも、全て戦争に動員された!
――中国大陸に動員された百数十万の馬たちは、1頭も日本に帰ってこなかった!

●参考資料
『ネコでもわかる? 有事法制』(小西誠・きさらぎやよい/編著
出版元: 社会批評社) 

はじめに 7
PART1 還らなかった動物たち 11
●かつて、ネコ、イヌ、ウマ、ハトも有事に動員された!
  撲殺されたイヌたち 12
  連絡・ゲリラに使われたイヌ 19
  ネコ・ウサギの毛皮も徴発 22
  一頭も還ってこなかった「軍馬」 26
  「物言わぬ戦士」たちの最後 30
   ハトは平和の象徴ではなかった 35
   戦時下の上野動物園 38
   最後は餓死させられたゾウ 42
   ゾウを守り抜いた園長さん46
   以下略
http://www.maroon.dti.ne.jp/shakai/52-2.htm

*火野葦平『土と兵隊 麦と兵隊』(社会批評社刊)から引用

(弟へ。十月二十日。大平丸にて)
 その後みんな変りなく達者でいることと思う。兄さんも元気である。
 今日も私達のまわりに淼々と青い空と、淼々と青い海とがある。それは昨日も、一昨日も、一昨々日も、一昨々昨日も、あったと変らぬ青さで、そこにある。深々と秋の気配を清々しくは思うけれども、我々兵隊はもう少々退屈しているのだ。私達が皆に見送られて門司の港を離れてから、今日で十一日になる。何とも名状し難い別離の感情を強いても笑いに紛らして桟橋を離れたが、今も尚眼にちらついて去らぬ旗の波と、その波の中に浮き上っていた皆の顔と心とを、この頃では、妙にぼんやりした倦怠の中に思い出している。此処から見ると、あくまでも深い空の青さと海の青さとに挟まれて、島の上に茶褐色に連るあまり高くない山々と、松林と、白絹の帯をのべたような美しい海岸線と、白砂の汀と波とが見えるが、それは、我々が意気込んで待った敵国の風景ではない。

 兵隊を満載した御用船が次第にくらくなる夕闇の中を、ちらちらと明滅する燈火を両岸に見ながら、関門海峡から六連列島の間に入りこんで行く時は、げにも通俗小説のごとき感傷的な瞬間であった。兵隊達は皆上甲板に鈴なりにむらがって、ものも云わず、次第に遠ざかって行く故国の港を、無論涙をためて眺めながら、誰に向ってともなく、もうすっかり見えなくなった人々に対してではなく、遠ざかってゆく故国の山河に向ってであったが、既に力の抜けた手振りで日の丸の旗を振りながら、いつまでも甲板から降りようとはしなかった。それは、云うまでもなく、我々兵隊が、常にいかなる軍歌よりも愛誦して来た「戦友」の歌の、御国が見えなくなってゆく、惻々たる感懐がお互の胸を深くつつんでいたのである。しかしながら、秋の海の上を敵国へ向って進航して行く我々の御用船の甲板からはいつまで経っても御国は見えなくならず、最後には反対にいつまでも御国が視野にあることが切なく歯痒ゆくなって来た我々の気持を外に、玄海灘の美しい海岸線に沿い、我々の船は又も何処とも知れぬ日本の湾の中に錨を下してしまった。そして、きっと、今頃は戦場にあって、弾丸の中で奮戦しているに違いないと考えているであろう君達を初め、故郷のことごとくの人々の意表にあって、我々勇壮なる兵隊は何もせず、船の中で毎日ごろごろと起き伏して、退屈し、この頃では少々くさっているのである。

 私の乗っている大平丸には二千人に近い兵隊が居る。それから二百に近い馬が居る。無論多くの兵器もある。その他戦争に必要な色々なものがある。海に浮いた動かぬ兵営の中では明けても暮れても戦争をしない兵隊がごろごろし、伸びる髭の寸法を計ってみたり、欠伸をしたり、洗濯をしたり、酒を飲んだり、手紙を書いたり、浪花節をうなったり、腕角力をしたり、将棋をさしたり、トランプをしたり、雑談をしたり、飯を食ったり、小便をしたり、何もしなかったり、している。青い海の上にこういう兵営が私達の周囲に何十隻となく浮び、向うでも同じことを毎日繰りかえしているのが此方からよく見える。そうしてこれら多くの城は数隻の巡洋艦と駆逐艦とによって周囲を取りまかれ、護衛されている。
 (中略)

 身体といえば実際、食っては寝ているばかりで調子がどうもはっきりしない。時々山下軍曹が音頭を取って、甲板へ出て建国体操か何かやるが、大した運動にもならない。しかし我々より可哀そうなのは馬だ。一番底の船艙に拵えられた狭くて暗い馬欄に、軍馬はもう十数日というものじっと繋がれたままである。

 上甲板から時々深い下を覗いてみると、暗い船艙に並んだ軍馬の胴の厚みが、眼に見えて薄くなって行くように見受けられる。肋骨の見える馬さえ数を増した。馬糧や水は充分にあるのだ。殊に水は兵隊には使わせずとも馬には充分に飲ませている。水では、我々兵隊は馬よりも下等で可哀そうな状態である。我々は殆ど風呂にも入れず、顔も洗えず、過すことが多い。その点では申分ないわけだが、運動不足と、陽の目を全く見ないのと、船底の濁った空気のために、日に日に弱って行くらしい。私は何頭も遂に殪れた馬を見た。兵隊は必死になって治療を加えているけれども横倒しになったまま、次第に息を引き取って行く。兵隊は自分の子供の臨終でも看取るようにじっと見つめている。私達が上甲板から覗いていると、深い船艙の底で、輜重の兵隊が暫くこと切れた馬の傍を離れず、やがて立ち上って静かに馬に向って敬礼するのを何度も見た。殪れた馬は船艙からウインチで捲き上げられ、舟に積まれて島の方へ運ばれて行った。馬の身体で一杯になって沈みそうな漁船を、島の漁師が操って去ってしまった。数頭の馬が殪れたために、遂に馬は或日悉く島に上げられた。

 私はこういう軍馬を見ると、山の手の吉田卯平のことがすぐに頭に浮んで来る。今、卯平はどうしているかとおもうが、又、彼の馬もどうしているかと思う。働き者だった馬車曳の卯平は非常に彼の馬を愛しておった。事変が始まると間もなく彼の馬は徴集された。いったい彼は四十を既に越しているのに子供がなく、貰い子をしようと色々苦心していたようであったがうまく行かず、しまいには諦めて、彼の馬に吉蔵という名前をつけ、まるで子供を世話するように可愛がっておった。彼がよく人の好い片笑いを湛えて、こんなでかい奴は眼の中なんぞにゃ入らぬが、ほんとうに吉蔵は眼の中へ入れても痛くないよ、などと同じことを一つ覚えのように誰彼を摑えてはくり返していたのを思い出す。その吉蔵が戦場に出ることが決定すると、彼は町の提灯屋に旗幟の註文に行った。

「祝吉蔵之出征」と書いたその幟を彼は家の前に立てた。彼の女房は、おしんと云ったと思うが、彼の命に依って大きな布で千人針を拵えた。それは無論我々四五人も包める位でかいもので、女房はそれから毎日町にあらわれて糸を通して貰った。それは畳針で通したので、縫ってくれる人がおかしがって、中には冗談だと思う人があったりして、中々完成までには骨が折れたということだ。それを吉蔵の腹に巻きつけた。それから、白山神社や宮地岳神社などの武運長久のお守を沢山受けて来て、この千人針に縫いこんで、吉蔵の身体につけてやった。彼は近所の人々を招待してささやかな祝宴を張った。私も招ばれたので酒を一升祝に持って行ったが、五六人の客の中、同職らしい人が多く、卯平はうちの吉蔵はこんながっしりした身体だし、それにとても素直な奴だから、きっと軍のお役に立って立派な手柄を立てるに違いない、こんなめでたいことはないよ、さあ飲んでくれ、さあ飲んでくれ、と云いながら、ぼろぼろと涙を流した。

吉蔵は縁側に引き出されてぬっと長い顔をこの祝宴の中につき出しておったが、何やら怪訝そうな顔をしている吉蔵に、卯平は海老の煮たのや鯣を取って口の中へ押しこんだり、酒を流しこんだりしておった。その翌日の夕方、今朝、聯隊の馬繋場に馬を曳いて行って引き渡しての帰りだという卯平に病院坂でひょっこり出会ったが、卯平は何か力の抜けたような恰好で、吉蔵は可愛い奴でしたよ、とそれだけ云ってすたすたと去ってしまった。それきり卯平に会わずにいたが、他からいろいろと噂を聞いたところでは、その日は暑い日だったが、卯平は例の旗幟を押し立て、千人針やお守札や日の丸の旗で神馬のごとく飾られた吉蔵には耳のところに穴をあけて編笠を被せて、おかみさんが手綱をとり、馬繋場に行った。馬繋場には方々から沢山集っていたが、外にも多くの馬が、吉蔵と同じように、千人針か日の丸の旗かで飾られていた。隊に馬を引き渡す時にも卯平はぼろぼろと涙を流し、秀でた吉蔵の鬣を撫でたり、首を叩いたり、尻たぶをさすったりして、日の暮れるまで帰ろうとしなかった。

それから毎日、卯平は、炎熱の中を相当に遠い馬繋場を訪れた。家に居ると、卯平はぼんやりして気が抜けたようになっていたが、彼の愛馬の顔を見ると急に生々と活気づいたように、これを話した彼の同僚は、卯平さんはちょうど植木に水をやったようになりやして、と云ったが、そのようになって、何か馬と話でもするように口の中でぶつぶつと呟きながら、隊の兵隊に交って馬の世話を焼いた。そういう時には、彼はふっと、ああもう吉蔵は自分のものではないと思いいたるらしく、子供のようにぼろぼろ涙を流しては、兵隊に笑われておった。兵隊が、これからは御国の馬になったのだし、出世したんだし、僕等が大切にして可愛がって上げますよ、と慰める。すると、卯平は、お願いいたします、お頼みいたします、と云って何度もお辞儀ばかりしていたそうである。いよいよ吉蔵が御用船に積みこまれて、宇品の港を出帆する日には、彼は桟橋の上に立って声を限りに愛馬の名を呼び、船が見えなくなるまで、旗が千断れるばかり振っていた。そういう話であった。

その後、吉蔵はどこの戦線に行ったものやら全く判らない。私が出征する時には卯平は家に来て色々世話を焼いてくれたり、使い走りをしてくれたりしておったが、乗船の日、桟橋で、私に、吉蔵は尻たぶのところに⊕の印と、その横に吉の字の烙印が捺してありますのですぐ判ります。赤の混った栗毛で、馬はあなたも見たこともあるし、もし見つかりましたら、どうぞよろしく、いや、どうも馬によろしく、もないですが、鼻面の一つも引っぱたいてやって、御暇でもありましたら、消息だけでもわたくしにお知らせ下さいましたら御恩に着ます、と云った。何時か私は馬の世話をしている兵隊に、そんな馬は居ないかと聞いてみたこともあったが、さあ気がつきませんがと云われ、不親切かも知れぬが、かと云って、一匹一匹検べて見ることも一寸億劫なので、まだ決行せずにいる。馬と人間を一緒にする訳ではないが、また馬と人間を全く別々に出来ないものがある。
(以下略)


私は現地取材を重視し、この間、与那国島から石垣島・宮古島・沖縄島・奄美大島・種子島ー南西諸島の島々を駆け巡っています。この現地取材にぜひご協力をお願いします!