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歴史を彩る無名戦士に花束を②孕石主水

きょうの主人公の名前をただしく読める方はそれほど多くいないだろう。

孕石主水(はらみいし・もんと)という。戦国時代の武将だ。

戦国の雄、徳川家康(とくがわ・いえやす)の人生を長編小説にたとえるなら、家康とわずかに交わりがあった孕石に関する記述は、数行といったところだろう。とるにたらない存在といえば、そうだ。だが、筆者には、孕石のたどった軌跡が妙に気になる。

孕石を紹介するまえに、家康の幼少時代を振り返りたい。きょうのストーリーは2人の不思議な因縁がその骨格をなしているからだ。

不遇だった徳川家康

家康は1543年、松平広忠(まつだいら・ひろただ)の長男として三河(愛知県東部)の岡崎で生まれた。「泣かぬなら 泣くまで待とう ホトトギス」の句で知られる家康は、その我慢強さを、不幸な幼少時代に身につけた。

3歳で母と生き別れ、6歳で他家に人質に出された。当時、家康の生家である松平家は、尾張(愛知県西部)の織田、駿河(静岡県東部)、遠江(同西部)の今川に挟まれ、四苦八苦していた。長男である家康を人質として差し出さなければ、お家の安泰を図れなかったのだ。家康は織田、今川双方で人質を経験した。

孕石との縁

家康が今川氏の本拠地である駿府(静岡市)で人質生活を送っていたとき、隣に孕石主水の屋敷があった。孕石は掛川周辺に領地をもつ豪族で、正式な名を「元泰」(もとやす)といった。当時の今川家の当主、義元(よしもと)から”元”の一字をもらい受けていることが示すように、今川家の重臣だった。

鷹狩りでの一言

当時、戦国武将の間で「鷹狩り」が流行っていた。飼いならした鷹を放ってウサギやキジなどの獲物をとる狩猟のことだ。野山を駆け回るから身体にもいい。家康も夢中になった。

ある日のこと。家康が飼っている鷹が孕石の屋敷に迷い込んだ。鷹を受け取ろうと家康が臨家の門をたたいたとき、応対にでてきた孕石が家康にむかってこんな言葉をなげつけた。

「人質の分際で鷹狩りとは生意気な」

孕石は薄笑いを浮かべながら、この言葉を吐いた気がする。より侮蔑の度合いが増し、相手を傷つけることを無意識に計算したうえでだ。

当時の家康は10歳代の前半という多感な時期。もとはといえば三河一の武将の跡取りだ。「一人前の武将になりたい。なれるはずだ」という野望と、今川家の一人質という現実との狭間で葛藤していた。

そうした家康の苦しさ、やりきれなさを見透かした、激しい言葉。孕石がどれほどの思いで言い放ったかはわからない。何気なくかもしれない。

だが、家康にとっては忘れることはない、大きな一言になった。

家康の成長

時計の針を30年進めよう。

この間、織田信長(おだ・のぶなが)が今川義元を討ち、天下人としての第一歩目を踏み出すという、衝撃的な事件があった。今川家の落ち目をみた家康は信長と同盟をかわし、信長の天下統一を手伝う役回りを演じながら、着実に東海地方で存在感を高めていった。

1581年3月。今川没落後、この地域を治めていた武田氏の手にある高天神城(静岡県掛川市)を家康は攻めた。武田信玄(たけだ・しんげん)亡き後、勢力の衰えをかくせない武田勢を遠江、駿河から一掃するためだ。この重要拠点を落とせば、家康は三、遠、駿の3か国を手中にするメドがつく。

もとはといえば、人質として仕えた今川氏が治めていた国々だ。家康にとっては感慨深かっただろう。

再会

武田軍降伏の知らせとともに、敗残兵たちが捕虜として家康のまえに引き立てられてきた。

本陣奥の床机にこしかけていた家康は、敗残兵たちに無表情な視線を送っていたが、1人の老人におもわず目をとめた。

ずいぶん老けたが、目の前で頭を垂れているのは、まぎれもなくあの孕石主水だった。長い歳月がたち、いつのまにか敵味方にわかれていた。

家康は爪をかんだ。家康はなかを考えるとき、爪をかむくせがある。

あのときの言葉。青春の心をえぐったあの言葉。苦しかった少年時代がありありとよみがえる。故郷を離れ、おのれを奮い立たせながら前だけを見ていた。一皮むけば不安だった。プライドとみじめさがごちゃ混ぜになった記憶であふれそうになる。

「おまえは孕石だな。いますぐ切腹するがよい」

家康は青白い炎のような目をしていた。静かな佇まいがかえって内に秘めた思いの根深さを物語っていた。

あまたいる捕虜のなかで切腹を命じられたのは、孕石1人だった。30年という長い時間をかけた末の復讐劇だった。

かつて嘲笑の的だった少年に死を命じられた孕石は何をおもったか。後悔だったか、あきらめだったか。歴史書は沈黙している。


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