子どもの頃に染み付いた価値観を手放したい
子どものころの記憶はあまりない。
詳細には覚えていない。
最近、子供の頃の記憶を思い出してみたいと、遠い昔に思いを馳せてみることがあるけれど、こまかなエピソードは出てこないものだ。ただ、のっぺりとした閉塞感を帯びた空気は覚えている。
わたしが学校生活を送ったのは、九州の隅っこ、片田舎にある保育園、小学校、中学校。
単学級で、しかも保育園から中学校まで構成メンバーの変化があまりない環境だった。
おそらくなじめていなかった。
いま思うと、息をしづらい学校生活。長く長く続いた。
当時は息をしづらいことに自覚はなかった。他を知らないからだろう。
話変わって、
わたしには、学歴や年収、職業といった社会的ステータスについてのコンプレックスがある。ひとの学歴や職業が気になり、劣等感を持つ。
こうして書くと恥ずかしいし、なんだか信じがたい気持ちもある。
最近ふとしたことで気づいた、この劣等感の存在に。
(ジェーン・スーさんのTBSラジオ「生活は踊る」の相談コーナー「相談は踊る」5/9の回をポッドキャストできいたころだ)
そのコンプレックスの根っこはどこにあるんだろうと、昨日から考えていて、さっき、ひとつの記憶にたどり着いた。
学生時代のエピソード。
小学校高学年、もしくは中学生のころだろうか。
幼児期からヤマハ音楽教室に通っていたわたしは、エレクトーンが得意だった。クラス単位の音楽発表や全校での合唱をする際に、エレクトーンで伴奏をよくした。音楽の先生に指名を受けるのだ。
「合唱を始めます」という司会の先生のアナウンスで、わたしは全校生徒の中でひとり、しずしずとエレクトーンの前に座り、伴奏を弾く。みんなは合唱。
それは、「わたしは他の人とは違うでしょ」という優越感を感じる行為だった。
成績は、上から数えるほうが早い順位にはいた。飛び抜けてできるわけではないけれど、まあ、できる、くらい。
そんな学校生活の中で、わたしのこころを支えていたのは、
「なんか、ちょっとだけ人より出来ることがある」
という優越感だった。
その優越感は、閉塞感漂うあの学校生活の中で、わたしに息をさせてくれた。そのときの私には、「大事なもの」であり「必要なもの」だったんだと、今は思う。
ひるがえって、いま。
わたしは、その学生時代の感覚が、今も身に染み付いていることにと気づいたのだ。
ふとした瞬間に顔を出す。
たとえば、
・息子と、塾に提出する志望校調査を記入するとき。
(昨夜息子と一緒に志望校について話していて、なんとなく偏差値の高い学校へ誘導している私がいることに気がついた。息子は、近いところ!という基準で選んでいたのに。)
・集まったメンバーの、学歴や職業に関する情報を見聞きしたとき。
(だれがどんな学歴なのか職業なのかを気にしてしまう)
など。
なんか、そういう目で、みてしまう。
そういう目って、たとえば、
偏差値が高い方がいい、とか。
社会的ステータスの高い職業に付いてる人は偉い、とか。
つまり、「わたしよりちょっと(いや非常に)できる人」の存在や情報に、敏感に反応してしまうのだ。反応するということは、わたしのなかに学歴や職業に関してジャッジする何か(価値観?評価する癖?)があるのだろう。「わたしより出来る人」とか、「わたしより出来ない人」というような、優越感と劣等感が裏表になってる何か。
でも、でも。
いまの私には、それは必要ないんじゃなかろうか。
いま、わたしのまわりにあるのは、優越感を持たないと息ができない場所ばかりではない。
少しずつ、いまのわたしのままで息のできる居場所が増えてきたから。
もう手放してもいいはず。
そう、心から思えた。
どうやって手放せばいいかはわからないけれど、
でも、手放してみせる。
こうやって気づきを得たのが第一歩だ。
ふたたび、
この価値観が顔を見せたら、
今日のこの記事に書いたことを読み返そう。
何度か繰り返すうちに、きっと抜け出せるはず。
そう、信じてみる。