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闘争本能を活かす創造
人(ホモ・サピエンス)には闘争本能がある。
闘争本能そのものを否定すべきではない、と思う。
闘争本能は自然界においても当然の理であり、
各個体がそれぞれの闘争本能を発揮しながら、この多様な世界を彩っている。
闘争本能は、生存本能と繋がっている。
しかし、闘争本能の発露の行き先を見誤ると、戦争を引き起こされる。
例えば、人は精神的あるいは身体的に「飢餓」状態になると、
闘争本能が過激な生存本能と化して暴走する。
それが集団になれば暴徒となり、治安は悪化して、
ますます生活不安が高まり、精神的な「飢餓」状態が急激に増していく。
日頃から、安全な方法で闘争本能を満たす術があるといい。
どうすればいいのか。
既に世界中で実施されている事例はいくつもあるが、
暴力的な方法に依らず闘争本能を満足させることを実現した
事実に基づく映画『スティールパンの惑星』に、その答えが端的に示されている。
この映画では、暴力による争いが絶えなかった地域で、スティールパンという楽器が持ち込まれたことをきっかけに、
スティールパンでの演奏を競う、という争いかたが生まれ、
地域全体がその争いかたに次第に変貌していったトリニダード・トバゴ共和国での実例が描かれている。
当事者たちへの取材の様子と、美しいスティールパンの演奏によって、
闘争本能を否定することなく生活環境が劇的に改善され、安定していく経緯を
視聴者も一緒に追体験することができる。
音楽だけではない。
スポーツ、芸術、ゲーム、研究、学業、書道や茶道のような修行。
あるいは経済活動、政治、ボランティアに至るまで、
人は深層心理では互いに競争しつつ切磋琢磨し、そこに生き甲斐を見出すことで、
それをよすがに生きている。
そのような事例は少なくないように思う。
もちろん、すべての生きかたがそのようであるとは思わないし、
競争に生き甲斐を見出す生きかたが必ずしも幸せだとも言い切れない。
しかし、少なくとも、
単純な闘争本能によって血生臭い争いが引き起こされるのをただ傍観したり、自ら争いを引き起こしてしまうような生きかたに較べれば、
上述した様々な営みの中で争う生きかたのほうが余程、実りある生きかたであることは言うまでもない。
もっとも危険なのは、
人がもともと持っている闘争本能を抑圧することだと思う。
本能は、抑圧されればストレスとなり、不健全な内圧が増して膨れ上がっていく。
抑えきれなくなって爆発した時、それが新たな争いの火種ともなりかねない。
闘争本能を抑えるのではない。
直接的でない形、むしろ直接的な形よりも喜びや楽しみを見出せるような形で、
闘争本能を発揮する。そのような環境を整える。
そうすることで、闘争本能が創造的に働き、その営みが、
ひいては人類全体の幸福に貢献していくのだと思う。