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『チ。一地球の運動について一』著:魚豊 第Q集より

私にはこの「たった一つチを繋いでいくだけ」という物語がとても心地よかった。
世代を繋いで広がった宇宙の星々の営みも世界そのものも、ある一人の親の小さな人並みの願いに帰着していくことも。(7ページ)

色気ってのは腹がすわった覚悟のある人間が醸し出すもんだ!その色気がこの漫画にはある!(9ページ)

知ることの、大切さも無意味さも素晴らしさも恐ろしさも全てこの作品が描いています。(11ページ)

究極の真理と究極の美が一致する。(13ページ)

全く異なるイデオロギーを持つ人たちが同じ映画を親る。それぞれ全然違う感想を持っているけれど、その映画を観たという時間だけは共有している。そこが人間の良いところだと思うんです。(26ページ)

気付いてしまったがゆえに大変な道が開いてしまう。(29ページ)

伝えられることより、伝えられないことのほうにメディアの本質があるのかもしれないですね。(34ページ)

本当に自分の心から出てくる瞬間的な言葉って、すごくシンプルで美しいんですよね。(35ページ)

何かを思い違うって、理性があるからこそできることで。そこの勘違いから、冒険とか色々なものが始まると思うんですよね。そこがすごく重要で、勘違いしないようにはしたくなかったんですね。それこそ「アポリア」(相反する二つの見解が等しく成立する場合、解決の糸口を見いだせない難問)だと思うんですけど。(38ページ)

今は科学技術万能の時代なので、宗教というとなんか胡散臭いですけど、科学技術だけで解き明かせない真理に近づくのは、古来から宗教の役割だと思います。(44ページ)

常識を破壊してくれる一番身近なものがお笑いやったんですよ。最初に覚えた呼吸する方法、みたいなもんですね。(53ページ)

「(笑いには)力がある」と思ったんですよ。救われたし。(54ページ)

笑いだけが、自分と相手の関係性、というよりも、そのどちらも、全てをも、“超えている感”があるような気がして、それが不思議だったんですよね。神というか。(55ページ)

自由の状態をキープするための勇気は、大事ですね。(58ページ)

人間は結局、懐古主義だから未来のものを懐かしく感じて、過去のものを新しく感じるようなサイクルがずっと続いていく気がする。(66ページ)

マイノリティの中のマジョリティになると、ダサくなってしまいがちで。マジョリティの中のマイノリティでいるのがバランスとして一番かっこいいなって思う。(67ページ)

やっぱり作家性と大衆性を両立している作品のほうが面白いので、自分だけじゃなく他人の「好き」も含まれる領域で作るのが一番いいんですよね。(68ページ)

感動させる作品には個々の挫折や劣等感と繋がる瞬間がある気がする。そして受け手の代わりにそれらを打ち砕いて浄化してくれる。(81ページ)

感動は人を強くする。そして感動するにも、感動させるにも過去の痛みが役に立つ。(82ページ)

知的とは何か。知を巡る人間の態度は、うっかりすると痴的になりはしないか。(83ページ)

人間は、変化を求める者と、拒む者とに分裂するとき、最も激しく争い合う。
相手が存在するだけで、自分の存在が脅かされるとまで考えるようになる。こうなると争いを止めるための知など一笑に付され、どちらも過剰に自分たちの立場を守ろうとし、そして途方もなく痴的になっていく。圧力や暴力が当たり前になり、新旧の優劣を示すためだけに莫大な労力が費やされる。(84ページ)

知的であることは、必ずしも良心的でも先進的でもなく、ただ不幸になるほかない場合もある。(84ページ)

物語はなんの為に存在しているかというと物語の為に存在しているということだ。映画でも演劇でもテレビドラマでも漫画でも小説でも、表現の媒体には商業的な側面が存在している。それらを無視することはできないが、気付けばその側面だけが優先されるようになり、テーマは商業的な価値に飲み込まれてしまい、作家は始まりから純度を失ったまま筆を走らせることになっている。その結果、いや、もしテーマが商業的な価値に飲み込まれていなかったとしても、物語がテーマの為だけに機能することには全面的に賛成しかねている。つまり、社会的なテーマや個人的なテーマまたはメッセージと呼んでいるものでもなんでもよいが、とにかく意図の為だけにシーンの構成やセリフ、キャラクターの設定など物語を構築する様々な要素が存在していると、それはやはり物語の純度が高いとは言えないのではないかと思ってしまう。(85ページ)

どうやって物語の純度を失わないようにテーマを内包して語るべきかが重要で、テーマをどうやってそのまま言うかになっている現状に違和感がある。(86ページ)

現在もアメリカ合国あたりには「地動説」を否定し「天動説」を言じる人たちがかなりいる(らしい)。(89ページ)

信念と疑念を同時に持つこと。科学論にはこのことを指す用語がある。反証可能性。(89ページ)

優れたフィクションは、設定上の時間や空間を超えて、普遍性を獲得し、そして「今ここ」へと突き抜ける。(90ページ)

暴力は悪夢が現実化するところにあらわれ、そして悪夢は社会のシステムからやってくる。社会のシステムとは、目に見えないのが常である。つまり基本的に、悪夢それ自体はわれわれの目には映らない。(91ページ)

われわれに見えるのは、悪夢の〈結果〉でしかなく、ネットニュースがわずか数行で伝える悲惨な出来事は、悪夢の残した痕跡と見なすべきであって、それらはやはり、悪夢そのものではないのだ。悪夢とは、社会のシステムに秘められたプロセスを指すのだから。プロセスを捕獲するのが、物語作者に課された困難な使命である。(92ページ)

人間の無意識下で回っている歯車こそが、人間を追いつめる。(92ページ)

「自分(達)が世界の中心ではない」と悟るのは、「地球が世界(太陽系)の中心ではない」という地動説の発見と構造的に同じです。陰謀論と地動説の明暗を分けるのも、真備やエビデンスの問題ではなく(もちろんそれもあるけれど)、究極的にはこの「自分(達)を世界の中心において考えるかどうか」という世界観の違いではないでしょうか。言葉も論理も、すべて「借りもの/仮のもの」なのだから、それによって形成された自意識を中心に置けば必然的になんらかの誤謬を孕むでしょう。(96ページ)

人の夢を叶えることに、自分の希望を見出してもいい。全員が全員自分の夢を叶える必要はない。人の夢のために動けることも間違いなく才能である。(99ページ)

自分の置かれてる状況が変わると夢も変わっていく。昔持っていた夢が、今と全然違っていたりもする。今の自分の夢が叶った時、他の誰かの希望になるだろうか。(99ページ)

自分では何も変えられなかったとしても、次の誰かが出てきて欲しいと思う。間違いとされているようなことをしないと変わらない現状にどこかみんな気づいていても、人はほとんど動かない。皆、時が流れるのを待つだけだ。(99ページ)

夢という言葉で片付けるのって、結構よくないのかもしれない。将来はもっと生々しく迫ってくるし、人間が動かないと何も変わらない。必ず叶うとも思わないけど、叶う方法を探せば道筋は立てられる。そうやって1日ずつ過ごすのだ。一緒に頑張りましょう。あなたの夢は、間違っていない可能性が大いにあると思います。(99ページ)

“悪を捨象せず飲み込んで直面することでより大きな善が生まれることもある。悪と善、二つの道があるんじゃなくすべては一つの線の上で繋がっている。そう考えたらかつての憂節さえも何も無意味なことはない。でも、歴史を切り離すとそれが見えなくなって、人は死んだら終わりだと、有限性の不安に怯えるようになる。”(111ページ)

“神は人を通してこの世を変えようとしてる。長い時間をかけて少しずつ。この“今”はその大いなる流れの中にある。とどのつまり、人の生まれる意味は、その企てに、その試行錯誤に、“善”への鈍く果てしないにじり寄りに、参加することだと思う”(111ページ)

たとえば私が今の時代で判断すれば徹底的に間違った文章を残したとして、今生ではそれが恥として記録されたとしても、そこから手繰り寄せられる未来の善があるかもしれない。そうなれば、今の私の恥はいつかの誰かの誉になります。そしてその誰かの誉はいつか新たな恥を手繰り寄せるかもしれないし、その先も同様です。つまり、正しかろうが間違っていようが、とにかく今ここに誰かが何かを残さない限りは何も始まらないんです。何も続いていかないんです。(112ページ)

恥じて怯えて何もしない、それでは誰も何も受け取れないし、何も続いていかないんです(112ページ)

「殺す」ことが反社会的であるならば、「知る」ことも十分に反社会的でありうる。哲学的な文脈で言えば、ソクラテスが古代ギリシアにて処刑されたことは、「知る」こと、あるいは他の者が「本当は知っていない」と暴露することが、社会にとっていかに危険でありうるかを示している。(119ページ)

教会は、人々が原罪を負っていて、この世界では苦しみしか味わうことができないと説く。「希望は天国しかない」と「畜群」たちに教える。人は超越的な神と死後の不死性を言じ、そこに希望を託すしかない。(124ページ)

コペルニクスの地動説を説いた書『天球の回転について』は、正に活版印刷でつくられた書である。(126ページ)

写本時代の本とは、知識をあまねく普及するどころか、一部の階層に知を留めておく遠因にもなっているともいえる。活版印刷の登場は、この状況に風穴をあけた。(127ページ)

会話で発せられた音声が、その時その場で消失してしまうのに対し、文字は媒体に記録され、時や場所を超えて、情報伝達が可能になったのだ。(128ページ)

作中では、地動説が誕生した後、活版印刷が登場している。史実では順序は逆で、活版印刷の誕生したおよそ100年後に、地動説を唱えたコペルニクスの『天球の回転について』が出版された。(131ページ)

活版印刷は、教義や土地の境界によって分断されたネットワークを再構成し、新たな知を創造する公共文化圏を生み出していたのだ。(136ページ)

〈真理〉は、誤りを無慈悲に宣告する。〈真理〉の正しさは、思いや努力などの人間的な事情とは関係のないところにあるからだ。(143ページ)

〈歴史〉の視点を持つおかげで、「〈真理〉の暴風で生み出された瓦礫の山にも、尊重されるべき思いや時間がある」という考えを持つことができる。(144ページ)

誰かの言葉が自分の心に残した感動の痕跡を尊重し、それを誰かに伝えること。これは、感動を伝えるという〈歴史〉のコンテクストで生じた感動である。
一方で、誰かの言葉に心を動かされ、あるいは、理論や思想の美しさに触れ、その正しさを確かなものにしたいと考えることがありうる。他方で、感動は、自分が何を正しいと信じているかを脇に置かせる力を持っている。(145ページ)

偶然の出会いを無視し、他者を視界から排除する純粋な生き方をするときほど、効率のよい人生はないが、そこに誰かの感動が入り込む余地はない。
誰かが本気で必死で感動を伝えようとするとき、その体験を共有していない人物は、戸惑いとともにその言葉に相対する。そもそも、表面的に受け取ることのできるものに動揺することはない。戸惑いは、受け取った側の心に確かに影響を及ぼしているからこそ生じるものだ。(147ページ)

何よりも「自分を信頼し、自分の目で見て判断し、自分の心に閃く直感を信じるべきだ」という確信的な「自己信頼」に基づいて、伝統や権威、エリートの姿勢に対する反感を持つような姿勢のことを、アメリカ思想史研究では「反知性主義」と呼ぶ。(149ページ)

誰かの心に感動を伝えるとき、才能や環境は重要な問題ではない。(149ページ)

人間は、必死に〈真理〉を目指す人の姿や言葉に容易く心を震わせるのであり、それが間違っていてもやはり感動させられる。感性は正しさと関係なく動くので、人は正しさにも間違いにも感動してしまう。私たちは、愚かさにも美を感じることができる。(151ページ)

何かに感動して、自らの信じるところを探究していくとしても、想定を超える何かが起きたときにそれを感知する必要がある。何かにモヤモヤしたら、それをスルーせずに抱えておくこと。感動は重要だが、その実感が感動したものに対する違和感や抵抗感を抑圧する理由になってはならない。ある考えを正しいと人生をかけて信じていても、それを揺らがす何かに事故のように出会ったとき、信念に固執するあまり、その揺らぎや疑いから目をそらし、無視し、押し殺すような振る舞いをしないことだ。(153ページ)

信念(自分の正しさ)に固執することをやめて、他者からの批判や異論に開かれること。そこから抵抗感や違和感を受け取って、判断を迷い始めること。何かとの出会いによって迷うことができるかどうかは、自分の感性にかかっている。(153ページ)

世界や他者から予想を超えたものを受け取り、そのノイズに動揺させられることは、自分をこれまで通りの習慣的な判断から解放しようとするきっかけになる。迷いは、変化の兆しがそこにあることを意味している。(153ページ)

〈歴史〉とは、自分がいなくなった世界を生きる誰かに、変化の可能性をとっておくことなのである。(154ページ)

多くの地域で、ある支配的な宗教が特定の世界観を与え自然現象への語りの枠組みを提供する一方、科学は、このような超自然的な存在を使わずに論理整合的に自然現象を語ることを創始したことは強調すべきだろう。科学の出発点である紀元前6世紀頃の古代ギリシャの都市ミレトスで出現したのが元素を基盤にした自然学であり、自然学的な思考こそが科学の端緒を刻んだ。(163ページ)

このような科学の展開を考えると、科学革命とは、世界の見方の数学的な記述を確立し、自然学の数学化を目指したものだったことがわかる。その端緒にあった地動説の提唱にも、数学的な調和や美しさが紐づけられていたことから明らかなように、科学革命を後押ししたのは、数学のもたらす論理整合性の美しさや調和だった。(166ページ)

科学が各文化圏を渡り歩き、その論理的な自然現象の語りで人々を驚かせ受容されるのに伴い、もちろん論理的厳密性を極めた数学も科学に随伴して各文化圏にもたらされた。その受容は内容のみにとどまらず、自然現象の数学的記述を目指す態度も伝わった。その態度が全面に押し出されたのが科学革命期であり、その結果、コペルニクスに始まる学者たちはニュートンに至って数学による自然現象の記述を完成させたのだった。(167ページ)

最後に、『チ。ー地球の運動についてー』本編から抜き書きした記事へのリンク
を載せて、本記事の締めくくりとさせて頂きます。

多くのかたに、この素晴らしい作品
『チ。ー地球の運動についてー』
を手に取って読んで頂き、その感想をお聞きしてみたいです。

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