いつの間にか明るい
土竜は考えていた。
コロナ禍の2年間は、いったい何だったのか。
人々は何に怯え、何と戦っていたのか。
一つ、また一つと増えていく戦争。
その火種は、いつから始まっていたのか。
そもそも2つの世界大戦は、本当に終わったのか。
それとも形を変えながら、思想戦や経済戦、情報戦として続いているのか。
この2年間で、“目に見えて”人工知能の技術が進化した。
知能だけではない。身体性についても驚異的な速度でディープラーニングが進んでいる。
そのメカニズムの解明は、研究者ですらわからない。
わからないが既に、その実物が作られている。
まるで意志を持っているかのように
バランスをとって4本足で軽快に立ち続けるロボット。
研究者の説明によれば、“彼”に人工知能は組み込まれていないらしい。
AIの計算によって動いているのではなく、
仮想空間上で膨大な数のセンサー付き個体に学習させた結果を、
実世界のロボットに組み込む技術に成功したのだとか。
実際、私たちも日頃“考えて”動いているわけではない。
むしろ、気付いたら動いているし、動けるようになっている。
宇宙ロケットの部品を、日本の町工場で職人さんが作っている。
結局のところ、常に、思考よりも身体知のほうが凌駕しているのだ。
身体知が研ぎ澄まされた人ほど、メタ思考も鋭いようにも思われる。
・・・ここまで考えて、ふと疑問が湧いた。
「結局、思考って何のためにするんだろう?」
「思考を突き詰めたところで身体知に届かないのなら・・・」
土竜は気付いた。
「思考を突き詰めたところで身体知に届かない」という客観的な事実、
それ自体を認識するのは思考であり、身体知ではない。
言わば、思考は身体知を支える補助輪なのだ。
かつてインドの小国の王子だったブッダは、思考の末、
すべての地位を捨てて旅立った。
周囲からは失踪したかのように見えたが、ブッダにしてみれば命懸けの修行の旅だった。
彼は、身体知を極限まで高めていき、
自身が生まれてきた世界そのものを感じ取る術を遂に身に付けた。
彼自身は文献を遺さなかったが、
彼を慕って集まってきた弟子たちが、彼の発した言葉を書き遺した。
それらの言葉の集まりは「仏典」と呼ばれ、
仏典をよすがに生きる集団は「仏教徒」と呼ばれるようになった。
仏教は、シルクロードを経てこの日本にも伝わり、
夏のお盆の文化の原型となった。
日出ずる国ジパング。
おっと、あさやけが眩しい。
今、生きている。きっと大丈夫だ。