Thalia (アリウスのイエス観)
http://www.fourthcentury.com/index.php/arius-thalia-greek
より。英訳からの重訳。
アリウス自身の神学が表れているThaliaは断片でのみ残り、アタナシオスの「アルミヌムとセレウキアの教会会議について」の中での引用が最も長い。
:::::以下訳文:::::
(1)
… それで神自身は、彼がそうであるように、全ての者にとって表現され得ない方である。彼のみが、同等なものがなく、似ている存在がなく、同じ栄光を持つ存在がない。我らは、本性上、生まれし方と対比して、彼を生まれぬ方と呼ぶ。我らは、始まりを持つ方と対比して、彼を始まりなき方として讃える。我らは、時のうちで存在するようになった方と対比して、彼を永遠なる者として崇める。
(6)
始まりなき方が、御子を、創造された諸々の物の始めと成した。彼は彼を生むことによって、彼自身にとっての子として、彼を産んだ。彼[御子]は神の位格に特有の際立った特性を何も持たない。というのも、彼は彼と同等でもないし、同質[(ホモウシオス)]でもないのである。
(10)
神は知恵者である。というのも、彼自身は知恵の教師であるのだから。これが神が全ての者に見えざる方であることの十分な証拠である。彼は御子を通して造られた諸々の物にも、御子にも、見えざる方なのである。
(13)
特に、私は、いかに見えざる方が御子に見えるのか、と言おう。それによって神が見えるという力によって、彼自身の尺度に応じて、規定されるまでだけ、御子は御父を見るに留まるのである。
(16)
それで、一なる三者は、同等の栄光においてではなく存在するのである。彼らの位格は彼ら自身のうちで混合していない。栄光においては、一者のうちの一者が無限に最上の栄光のうちにある。御父はその本質において御子に対して異質である。なぜなら彼は始まりなく存在しているからである。
(20)
以下のことを理解せよ。単一者は在ったが、二者は存在し始めるまで無かったのである。ただちに以下が従う。すなわり、御子が存在しなかったとしても、それでも御父は神であったのである。それゆえ御子は、御父の意志により存在し始めるまで存在者でないのである。彼は唯一生まれし神であり、他者に対して異質である。
(24)
知恵は、知恵者である神の意志によって、知恵となった。数えきれない観点において彼はこのように把握される。彼は霊であり、力であり、知恵であり、神の栄光であり、真理であり、似姿であり、言葉である。光線と光としてもまた把握されるということを理解せよ。より優れた一者は、御子に同等な一者を生むことは可能であるが、より重大な、より優れた、より偉大な誰かはできない。神の意志において御子は彼の持つ偉大さと諸々の資質を持っている。その時から、そこから、その後も、彼の存在は神によるのである。彼は、力ある神であるが、相応に彼より優れた方を讃えるのである。
(33)
要するに、神は御子に対して表現され得ない。というのも彼は彼自身で彼が何者であるかであるので、つまりは形容できない。それで御子はこれらの諸々のことの何も分かることができず、またそれらを説明する理解も持たないのである。というのも、彼にとって、彼自身によって彼であるところの御父を推測することは不可能なのである。というのも御子自身は自身の本質さえも知らない。子であるが、ほぼ確実に御父の意志にあって彼は存在させられているのである。
(39)
どんな理路が、御父からの存在が、彼自身の親を分かり、知ることを許すだろうか? 明らかに、始まりのある者は、始まりなき者の存在について把握したり捉えたりすることができないのである。