アンティオケア教会会議の書簡(AD 325)

http://www.fourthcentury.com/index.php/urkunde-18

より。英訳からの重訳。

第一ニケーア公会議(AD 325)に先立つアンティオケア教会会議(AD 325)の存在は、関連文書がギリシア語原文では失われており、1905年にシリア語の写本が発表されるまで忘れ去られていた。

:::::以下訳文:::::

(アンティオケアにおいて集結した教会会議によって書かれ、コンスタンティノープルの司教アレクサンデルへ送られた書簡の写し。)

(1)
我らの、聖なる、考えを共有する兄弟、我らの同朋なる監督者である、愛されしアレクサンデルへ。Ossios, Eustathios, Amphion, Bassianos, Zenobios, Pipberios, Salamanes, Gregorios, Magnos, Petros, Longinos, Manikios, Mokimos, Agapios, Macedonios, Maulos, Bassianos, Seleucos, Sopatros, Antiochos, Makarios, Iacobos, Hellanikos, Niketas, Archelaos, Makrinos, Germanos, Anatolios, Zoilos, Cyrillos, Paulinos, Aetios, Moses, Eustathios, Alexander, Eirenaios, Rabboulas, Paulos, Loupos, Nikomachos, Philboxenos, Maximos, Marinos, Euphrantion, Tarkondimantos, Eirenicos, Petros, Pegasios, Eupsychios, Asklepios, Alpheios, Bassos, Gerontios, Esychios, Auidios, Terentios が主にあって挨拶を送る。

(2)
世界に渡る公同の教会は、会衆の諸々の場が様々に位置していても一つの体であるという意味で、[人]体の諸々の部分に似る。自然と以下が従う。すなわち、私と、全ての我らの聖なる兄弟たちが為したことと、なし始めている出来事について、あなたへの我らの愛によって我々はあなたに報告することになる。このようにしてあなたは、結び合わされた霊において我らと共に居合せ、我らが教会の法に応じてとった共通の諸決定と諸措置に応じた諸決裁をなすべく、我らと共に語らうことができよう。

(3)
私がアンティオケアの教会に到着した時、とある人々の教えと、彼らの物議をかもす派閥によって播かれた厄介な雑草たちで満ちているのを見た。私は私自身で[勝手に]彼らを追放したり、彼らを拒絶したりしようとしないことが重要だと考えた。周囲の諸領域からの、考えを共有する同朋なる監督者たちについては、彼らの普段の諸境界から踏み出して、ここアンティオケアにおける彼らの兄弟たちが、この喫緊で切迫した議題を取り扱えるよう助けることが必要であるように思われた。これにはパレスチナ、アラビア、フェニキア、シリア、キリキアからの者たち、そしてカパドキアからの幾人かが含まれていた。我々は調査し吟味することに我らの心を用いて、教会にとって何が適切であるかを完全に確立するべく、集まった。我らの都市はその多くの、公正な民たちによって調和のうちに過ごしている。

(4)
神の恩寵が我ら全てをアンティオケアに集めて、我らが神の教会にとって何が共通で、有用で、有益であるかを見分ける仕事にあくせくと携わると、我らは[この議題について]大きな混乱があることがわかった。これは特に、多くの場所において教会の法が無視され、あるいは蔑視さえされてきて、他の諸会議によって伝えられてきた公布が、ある世俗的な人々によって完全に見落とされてきたことによる。

(5)
それゆえ、これらの諸地域での司教たちの教会会議の集合が妨げられてきたので、我らは重要さにおいて全てを上回ること、私が敢えて言うならば我らのうちで見られる信仰の奥義全体であるそのことを、整理すべきであると考えた。勿論私は我らの共通の救い主、生ける神の御子について言及しているのである。

(6)
この論題は、我らの兄弟で同朋なる監督者、親愛に愛されるアレクサンドリアの司教アレクサンデルが、アリウスの党派のとある司祭たちを、彼らが我らの救い主に対して起こした冒涜の故に追放したことから、最も喫緊のことであった。 不幸にも、彼らは他の者たちを彼らの不敬虔な教えによって欺くことができて、彼らによって交わりのうちに受け入れられさえもした。それで、我らの聖なる教会会議にとっては、この議題について最初に整理することが最善であると思われた。神の奥義の頂点について明らかにしてしまって、他の全ての点が引き続いて整理されていくことができるようにするためである。

(7)
我らが集まると、我らが諸聖句から教えられ、教父たちから受けた教会の信仰に非常に詳しい多くの兄弟たちが出席して、この議題について長く議論した。アリウスとその党派に対するアレクサンドリアのアレクサンデルの措置が常に我らの考えと我らの議論[の俎上]にあった。我らは、誰かが現れてこれらの言明に反した教えによって彼ら自身腐敗させる力となるならば、彼らは教会から投げ出されるべきであると決めた。我らの間に留まることによって、より単純な教会員たちを引きずり下ろすことができないようにするためである。

(8)
この信仰は霊的な人々によって据えられたものである。神に霊感された諸文書に見つかる聖なる諸聖句について、御霊から教育されてきたので、彼らは肉に従って生き、思考していたと考えないべき者たちである。

我らの信仰は以下のようである。

一なる神、御父、全能者、理解できず、変わらずかつ変えられない方、全ての管理者かつ統治者、正義であり、善である方、天と地と、それらにある全ての造り主、律法と諸々の預言者と新約の主である方を信ずること。

(9)
そして一なる主イエス・キリスト、唯一の生まれし御子、無からでなく御父より生まれし方、造られず、本物の子孫である方を[信ずる]。彼は表現できず語り得ない[様式で]生まれた。なぜなら、生みし御父と、生まれし御子のみがそれを知っているからである。「というのも、御子の他に御父を誰も知らず、御父の他に誰も御子を[知らない]」のである。〈マタイ11:27〉

(10)
彼は常に存在していて、決して彼の存在する以前というものは無い。というのも、我らは聖なる諸聖句から、彼のみが神の表象であると教えられてきたのである。彼は生まれぬものではない。というのも彼は明白に御父から生まれているのである。この称号は彼に帰されてこなかったし、実際、そのように言うのは不敬虔な冒涜であろう。諸聖句が彼が本当に真実に生まれし御子であること述べるので、我らは彼が変わらずかつ変えられない方であると信ずるのである。彼は神の意志によってのみ生まれたあるいは存在するようになったというわけではなく、彼が無からのものであるかに見えさせるこの称号が帰されたこともない。彼は彼に適する[様式で]生まれたのであって、彼が彼を通して存在するようになったどんな諸々の事物とも似ている、あるいは似た本性を持つ、あるいは仲間であるというような容認し難い考案に従っ[て生まれ]たものでは全くないのである。

(11)
しかし、これは全ての考え、概念、表現を超越しているため、我らは彼が生まれぬ父から生まれた方、言葉なる神、真実の光、義なる方、イエス・キリスト、全ての主で救い主である、と単に告白する。彼は御父の、意志や他の何かではなく、存在自体の表象である。この方、つまり御子、言葉なる神が、また肉において神の母マリアから生まれ肉と成された。受苦し死んだのち、彼は死者のうちから立ち上がり、天へ上げられ、いと高き方の尊厳の右に着座している。彼は生者と死者を裁くため来るところである。

(12)
聖なる諸々の書物が我らの救い主を信じるよう教えるのと全く同様に、またそれらは一なる御霊を、一なる公同の教会を、死者の復活を、そして善であれ悪であれ肉においてそれぞれの人々が為したことに応じて報いるさばきを、信ずるよう我らに教えた。

(13)
神の御子は被造物であると言ったり考えたり宣言したりする者たちを我らは呪う。存在させるように[ある時]なった、造られた、本当に生まれたのでない、彼の存在しなかった時がある(というのも我らは彼はかつても今も光であると信ずるのである。)、[と言う者たち]、そしてまた彼は彼の自由意志によって〈つまり彼の本性に従ってではなく〉という[意味において]だけ変わらないと考える者たち、同様に彼が生まれる前に存在しなかった、父がそうであるようなその本性上変わらない者ではないと考える者たち[は呪われよ]。彼はあらゆる観点において、特に彼は変わらないというこの観点において、御父の表象であると宣言されてきたのである。

(14)
この信仰は提示され、確かに聖なる教会会議全体は、これが、唯一保存され得る使徒的教えであると合意し告白した。全ての同朋なる監督者たちはこれらの諸課題について同じ理解を持っている。ただラオディキア教会のテオドトス、パレスチナのカイサリア教会からのエウセビオスだけは共に現れてここで表現されたこれらのことに反する諸考案を提出した。あたかも彼らは聖なる諸聖句と使徒的諸々の教えを忘れたかのようである(確かに彼らは工夫して注意から逃れ、誤りのある彼らの欺瞞を隠すよう、また説得力を持って聞こえる諸議論であるよう試みたけれども)。実際、彼らが問われたことと、彼らの方から問うたことから、彼らは明白に、完全にアリウスの党派に賛同しており、我らの教会会議で確立されたことに反する意見を持っていることが証明された。彼らの心が頑なになり、これらの諸議題に関する彼らの考案を拒絶し否認する聖なる教会会議への何の敬意も持たないという、このような理由のため、我ら、教会会議における全ての同朋なる監督者たちは、これらの人々との交わりを実践しないこと、彼らを交わりに相応しいと考えないこと、を決裁した。彼らの信仰は、公同の教会のものとは別の何かなのであるから。

(15)
これについて知ることができるように、また、あなたもこれらの人々と交わりを持つことに対して警戒できて、親交の諸々の書簡をあなたが彼らへ書いたり、彼らから受けたりしないように、我らはあなたへ書き送る。あなたはまた、我らの大きな兄弟愛の故に、教会会議の我らで彼らを回心させ真理を認めさせるための場を確保した。アンカラで催されるであろう壮大で神聖な教会会議である。それで、全ての考えを共有する兄弟たちには、この伝言を広めるよう励ます。彼らもまたこれらの人々について、どのようにある者たちが教会から取り除かれ、それに一致しないでいたかの、諸々の事実を知ることができるようにするためである。

あなたと共にいる、そして周辺地域にいる全ての兄弟たちに挨拶を送る。我らと共にここにいる兄弟たちが、主にあってあなたに挨拶を送る。

(これがアンティオケアで集まった教会会議によって書かれた、新しいローマ、つまりコンスタンティノープルの司教、アレクサンデルへの手紙の終わりである。)

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