『Yoma 12b』(バビロニア・タルムード)
[※訳注:ここでは、大祭司の職権がいつから正式なものになるかについて論じている。]彼の奉仕[自体]が彼の[職権を]起動させる。モーセの造った全ての祭具は、その油注ぎがそれら[の祭具]を聖別したと教えられたではないか。それから後では、[諸々の祭具]の奉仕[自体]がそれらの[役目を]起動させる。ここで、[大祭司について]も、彼の奉仕[自体]が彼の[職権]を起動させる。
ラヴ・ディミが[バビロンに]来た時、こう言った。「通常の祭司の帯について、ラビ[・イェフダ・ハ・ナツィ(以下「ラビ」)]とラビ・エラザル・バルラビ・シメオンが、一方は「[異なる材質の]混合」と、一方は「[純粋な]亜麻布」と言った。
混合[材質]について言ったのはラビの方であることは確かである。大祭司と通常の祭司の間[の違い]は帯のみであると教えられたとおりであり、これがラビの言明である。ラビ・エラザル・バルラビ・シメオンは言う。「帯でさえ[違うことは]ない。」これはいつについて[の話だろうか]。もし一年の[ヨム・キプールの]他の全ての日々であるとすると、[帯以外にも違いが]多くある。[例えば]大祭司は八つの装束で奉仕するが、通常の祭司は四つである。
むしろ、これはヨム・キプール[大贖罪日]においての[話]ではないか。
言うには、「そうではない。実は、一年の[ヨム・キプールの]他の全ての日々の間のことであり、[大祭司と祭司で]共通する[四つの装束について]の[話]である。」
ラヴィンが[バビロンに]来た時こう述べた。「大祭司のヨム・キプールにおける帯について、皆が[純粋な]亜麻布について言い、一年の他の日々においては皆が混合[材質]について言う。彼らは一年の他の日々と、ヨム・キプールの両方における、通常の祭司の帯に関してのみ、違ったことを言った。ラビは混合[材質]について、ラビ・エラザル・バル[ラビ]・シメオンは[純粋な]亜麻布について言った。
ラヴ・ナフマン・バル・イツハクが言った。「我々も、『彼の肉体の上に』(レビ記 6:3[6:10])と学んだ。」 この節で「彼は上に着ることになる」と[重ねて言っているの]は、何を述べているのか? ラビ・イェフダが言う。灰を取り除く[行為]のためには、冠と帯を含む[ことを示す]ためである。これはラビ・イェフダの言明である。
ラビ・ドーサが言う。「[着ることになる、という二度目の言及は]ヨム・キプールにおける大祭司の装束は通常の祭司についても適切であるということを含むためである。ラビ[・イェフダ]は言う。「この言明に対する[反論の]応答は二つ。一つは、ヨム・キプールにおける大祭司の帯は通常の祭司の帯ではないということ。
そしてさらに[もう一つの点は]究極の聖別に用いられた装束を、より劣った聖別のために用いるだろうか? ということである。」そうではないとすれば、「着ることになる」という節は何を述べているのだろうか。それは擦り切れる[まで着る]ということを含むため[の言明]である。
そしてラビ・ドーサは彼の理路でこう続ける。このように教えられたとおりである。「そしてそれらをそこに残すことになる」(レビ記 16:23)は[祭服を]埋める要請を教える。ラビ・ドーサは言う。「それは別の[年の]ヨム・キプールにそれらを用いることができないということである。」
賢者たちはこう教える。「[ある大祭司について]資格喪失が起こり、彼の代わりに別の者を[大祭司として]任命すると、[もとの大祭司の資格喪失が解けた後で]もとの[大祭司]がその奉仕に戻る。第二の[代理大祭司]は、大祭司についての[服装などの]全ての掟が彼に課されている。」これはラビ・メイルの言明である。
[しかし]ラビ・ヨセイは言う。「もとの[大祭司]はその奉仕に戻り、第二の[代理大祭司]は大祭司としても通常の祭司としても適さない。」
ラビ・ヨセイは言った。「ツィッポリのエレムの子ヨセフ[יוסף בן אלם בציפורי]に関するある出来事があった。ある大祭司に資格喪失が起こり、その代わりに[ヨセフ]が任命された。」賢者たちは言った。「もとの[大祭司]がその奉仕に戻ると、第二の[代理大祭司]は大祭司にも通常の祭司にも適さない。」大祭司[となれないこと]は、敵愾心[が二人の大祭司の間に起こることを防ぐ]ためである。通常の祭司[となれないこと]は、ある者が聖性において上昇すると、その者が降格することはないためである。
ラッバ・バル・バル・ハナが、ラビ・ヨハナンが以下ように言ったと言った。
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