『諸原理について』第一巻 1章「神について」(オリゲネス)

http://www.newadvent.org/fathers/04121.htm

第1章 神について

(1)
ある人たちは、我々自身の聖書群の宣言に従ってでさえ、「神は[物]体的である」と言おうとするだろうということを私は知っている。その理由は、彼らの見解としては、モーセの諸文書のうちに「我々の神は燃やし尽くす火である」[申命記 4:24]と[言われており]、またヨハネによる福音のうちに「神は霊である。彼を拝む者は、霊と真理において彼を拝まなければならない。」[ヨハネ 4:24]と言われていることである。火と霊は、彼らによれば、体以外の何物としても見られない。私は、それらの人々には、「神は光である」[第1ヨハネ 1:5]と宣言された文に関して何と言うべきかを尋ねたい。ヨハネは彼の手紙の中でこういっている。「神は光である。そして彼のうちに闇は全くない。」[第1ヨハネ 1:5]実に彼は光であり、真理を受容する能力のある者たちの理解全体を照らす光である。それは詩編第三十六編において、「あなたの光のうちに、私たちは光を見る」[詩編 36:9]とある通りである。というのも、神の力の他にどんな神の光が、「誰もがそのうちに光を見るだろう」と呼称され得ようか。その[神の力]によって人は、啓蒙され、万物の真理を見通したり、神自身を、つまり真理と呼ばれる方を知るようになったりするのではないか。そのようなことが、「あなたの光のうちに、私たちは光を見る」という表現の意味するところである。つまり、「あなたの言葉、そして知恵、すなわち、あなたの御子、彼自身のうちに、我々は御父なるあなたを見る」ということである。彼は光と呼ばれるのだからといって、彼は太陽の光と何か類似を持つと推論されるのだろうか。あるいは、その[物]体的な光から、誰か知識の要因を引き出すことが、また、真理を理解するに至るような、想像の土台となることが、わずかでもあるだろうか。


(2)
それで、光の性質に関しての我々の主張は、理性自体が証明したものであるが、それを黙認し、神は光がそうである意味においては[物]体として理解され得ないということを認めるならば、同様の理路付けが「燃やし尽くす火」についても真理であろう。というのも、神は、彼が火であるということによって、何を燃やし尽くすというのか? 彼が木や、干し草や、切り株のような、質料的実体を燃やし尽くすなどと考えられようか? 彼が火であって、その種の諸々の質料を燃やし尽くすとして、その見方の何が神の栄光に相応しいと呼ばれるのだろうか? しかし、神は確かに燃やし尽くし、全く破壊する、ということをよく思慮しようではないか。つまり、彼は、信徒たちの諸々の思いの中にやってきた悪い諸々の考えや、悪しき諸々の行為や、罪深い諸々の欲望を、燃やし尽くすのである。それで、彼の言葉と知恵を受け取ることができるようにされたこれらの諸々の魂は、彼の御子と一緒に住む。それは、「私と御父は来て彼と住まいを共にするではないか」[ヨハネ 14:23]、という彼自身の宣言に従って、である。彼は、彼らの諸々の悪徳や諸々の欲情が燃やし尽くされたのち、彼らを、彼自身にふさわしい聖なる神殿と成すのである。さらに、「神は霊である」[ヨハネ 4:24]という表現を考慮して彼が[物]体的であると考える者たちには、以下のように答えられるべきだろうと思う。聖書の慣例では、この、大きさを持った、中身の詰まった体に反する何かを表したいときに、それを霊と呼ぶ。「文字は殺し、霊は生を与える」[第2コリント 3:6]という表現において、「文字」によって[物]体的な諸事物が意味され、「霊」によって理知的な諸事物、我々が霊的[精神的]という言い方もすること、が意味されているということは、疑い得ないのである。さらにかの使徒は言っている。「今日に至るまでも、モーセ[の諸文書]が読まれるとき、彼らの心には覆いがある。それが主に向くとき、覆いは取り除けられるのである。そして主の霊があるところに、解放があるのである。」[第2コリント3:15] というのも、誰でも霊的理解に転向させられていない限り、彼の心には覆いが置かれているのである。その覆い、つまり物質的理解、によって、聖句自体が覆われていると言われている、あるいはそう考えられる。そしてこれが、彼[モーセ]が民に語ったとき、つまり律法が公的に読み上げられたときに、モーセの顔面に覆いが置かれた[出エジプト34:33]という言明の意味するところである。しかしもし我々が主に、つまり神の言葉でもある[方向]に、そして聖霊が霊的知識を啓示する[方向]に向くならば、覆いは取り除けられ、覆いをとった顔で我々は聖なる諸聖句のうちの主の栄光を見るのである。


(3)
さて多くの聖徒たちが聖霊に連帯しているのであるから、[聖霊]は[物]体であるとは理解され得ない。つまり、体を有する諸部分に分割されて聖徒たちそれぞれに分け持たれたもの[とは理解され得ない]。そうでなくて、彼は明白に、聖化する力であって、彼の恩寵によって聖化されるに相応しい全ての者がそのうちに分け前を持つと言われるところの方なのである。我々の言うことがより容易に理解され得るために、とても似ていない諸事物から例示しよう。科学や医術においてその一部[役割]を持っている多くの人々がいるが、それだからといって、そうする者たちは、彼ら自身で、ある医療と呼ばれる物体の小片を持っていて、それが彼らの前に置かれ、そのように同じものに連帯している、などと我々は思うだろうか? それともむしろ、機敏で熟練した思考により学術と修養自体を理解するようになる全ての者は、治療の術を分け持つ者と言われるだろうということを我々は理解しなければならないのではないであろうか? ただし聖霊に対する医療の比較において、これら全てを平行した諸例と考えられるべきではない。それらは、それが必然的に物体であって、多くの個々人によってその分け前が所有されていた、のように見なされるべきではない、ということを確立することのために例示されただけであるから。というのも、聖霊は医療の方式や科学からは大きく異なっているのである。つまり、聖霊は理知的な存在者であり、位格を持ち、特定の様式で存在している一方で、医療は全くその性質を持たないのである。


(4)
ただ福音[書]自体の言語へと移らなくてはならない。そこにおいては神が霊であると宣言され、そこで我々は、我々が述べたことと合致してどのように理解されるべきか示さなくてはならない。どういった機会にそれらの言葉が救い主から語られたか、誰の前で彼がそれらを声に出したか、調査課題は何であるか、を調べよう。我々は、何ら疑いなく、彼がこれらの言葉をサマリアの女へ語ったということを見つける。サマリア人の見方に合致して、神はゲリジム山で崇拝されるべきであると考えていた彼女に、彼は、「神は霊である」[ヨハネ 4:24]と言ったのである。というのも、サマリアの女は、彼をユダヤ人だと信じており、神はエルサレムで崇拝されるべきか、あるいはこの山で[崇拝されるべきか]を訊いていた。彼女の言葉はこうである。「全ての我らの父祖たちは、この山で崇拝した。だがあなたがたはエルサレムにおいてこそが崇拝すべき場所であると言う。」 [ヨハネ 4:20]それゆえ、サマリアの女のこの意見に対して、つまりこの者は神が、諸々の別の位置の諸特権に応じて、エルサレムのユダヤ人か、ゲリジム山のサマリア人のどちらかによって、より正しくなく、あるいはより適切でなく崇拝されていると想像したのである。しかし救い主は、主に従おうとする者は諸々の特定の場所への全ての優先権を脇に置かなければならないと答えた。それゆえ彼自身以下のように表現した。「エルサレムにおいてでも、この山においてでもなく、真の崇拝者たちが御父を崇拝する時が来る。神は霊である。彼を崇拝する者たちは、霊と真理とにおいて彼を崇拝しなければならない。」 [ヨハネ 4:21,24]そして彼が霊と真理をいかに論理的に結合したかを観察しなさい。彼は神を霊と呼んだが、彼を諸々の[物]体から区別するためかもしれない。そして彼は彼を真理と名付けたが、それは彼を影や表象から区別するためである。というのも、エルサレムにおいて崇拝する者たちは、真理においても霊においても神を崇拝しておらず、天的諸事物の影や表象へ従属しているのである。ゲリジム山で崇拝する者たちの場合も同様である。


(5)
それで、いかなる程度にしろ、神について体を有するというように考えるべきであると示唆するようなあらゆる見解を、我々に可能な限り論駁したので、我々はさらに進もう。我々は、厳密な真理に従えば、神は理解できず、また測られることができないと言おう。というのも、我々が、知覚によってであれ、思慮によってであれ、神について得られるどんな知識があるにせよ、我々が彼がそうであると知覚するよりは、ずっと多くの段階だけ彼が優れていると必然的に信じなければならないのである。我々が、光の火花や、とても小さな灯火の炎も把握しきれない者を見たとしよう。その視覚では既述のものより大きな程度の光を認めることができない者に、太陽の輝きの明るさをよく知らせたいと欲したとしたとしよう。たとえ[そう欲したとしても]、我々は、「太陽の輝きは語られ得ず、計り知れずより良いものであり、彼の見たこの全ての光よりもっと栄光を持ったものである」と伝えざるを得ないのではだろうか? 肉と血の足枷によって閉じ込められていて、そのような質料的諸実体のうちに連帯しているという意味では、より曇り、より愚鈍にさせられている我々の理解は、我々の物体的性質と比べればずっと優れていると評価される。とは言えども、体の無い諸事物を調べ、見るための諸々の努力において、かろうじて火花や灯火の程度のものを把握するだけなのである。全ての理知的なもの、つまり体の無い存在の中で、何が神ほど、全ての他のものに対して語り得ず測り得ず優れていると言うのか?いかなる人間、最も純粋で最も聡明な[人間]でさえ、その理解の力によって、この方の本性が把握されることも、見られることも、あり得ないというのに。


(6)
しかし、論題の見通しを良くするために、もう一つの類似物を我々が採用したとしても、理不尽とは思われないだろう。我々の両目はしばしば光自体の本性を見ることはできない。つまり、太陽の実体を[見ることはできない]。しかし我々が、たぶん諸々の窓や何か小さな光を通す諸々の開口を通して注がれるその輝きや諸々の光線を見たとき、その[天]体の光の供給量と源がどれだけ偉大であるかを思慮できるのである。同様に、神的摂理の諸々の業と、この世界全体についての計画は、彼の現実の実体と存在と比して、ある種、あたかも神の本性の諸々の光線となっているのである。それゆえ、我々の理解はそれ自体で神自身をあるがままに見ることは不可能である。[我々の理解]は世界の御父を、その諸々の業の美しさと彼の諸々の被造物の魅力から知るのである。それゆえ神は[物]体であるとか、[物]体のうちに存在しているような存在と考えられるべきではない。むしろ、いかなる種類の付け加えも彼のうちに認めない、合成されていない理知的本性として[考えられるべき]である。それで、彼は彼の内により大なるものもより小なるものも持つと信じられ得ず、むしろ、彼は全ての諸部分においてΜονας[(単一者)]であり、いわば全ての理知的本性と精神がそこから始まるところの精神と源なのである。精神は、その諸々の動きや諸々の操作のために、物理的な空間も、認識できる[ある程度の]大きさも、[物]体的な形も、色も、他のどんな[物]体や物質の特性であるそのような諸々の付属的[性質]も、必要としない。それで、その簡明で全面的な理知的本性は、その諸々の動きと諸々の操作においてどんな遅延も躊躇も認め得ない。そうでなければ、神的本性の簡明性が、制限されるように、あるいはある程度そのような諸々の付属によって妨げられるかのように見えてしまったり、また全ての諸事物の始めである方が合成的で[内的に]相違しているように解されてしまったり、神位にある唯一無二の種[属]であることの徳において全ての[物]体的混合から自由であるべき方が、いわば、一者である代わりに、多くの事物から合成されていると示してしまうのである。さらに、精神はその本性に合致した諸々の動きを実行するために空間を要請しないということは、我々自身の精神の観察から確かである。というのも、もし精神が自身の諸々の限度の内に住まい、いかなる原因からも害を被らないとすれば、置かれた場面の違いからその機能の解放において遅らされることも全くないであろうし、一方で特定の諸々の場所の性質からいかなる機動性の加算も増加も得ないのである。ここでもし、例えば、海にいて、その諸々の波によって投げ上げられている者たちの中では、精神はいつもどおり陸地にいるよりはかなり活発でなくなる、と誰か反対する者がいるなら、我々は、この状態においては、置かれた場面の違いからのものではなく、精神がそこへ結び合わされ貼り合わされているところの体の動揺や妨害からのものと信じることになる。というのも、人間の体にとって海で住むことは、あたかも、本性に反しているように思えるのである。そしてその理由のために、それ自身へのある種の不均衡さによって、その精神的操作にぞんざいで乱れた様式で入るように、また愚鈍な感性で理知的な諸行為を遂行するかのように、なるのである。その程度としては陸地において高熱で伏せった者たちと同程度である。その者たちに関しては、病気が襲うことの結果において精神が以前ほどその機能を解放しないとしても、その責任は場所にあるわけではなく、体の疾患にあり、それによって妨害され混乱させられている体が、精神に対する通例の奉仕を全くもって良く知らぬ自然でない状態で行うことにある、ということは確かである。というのも、我々人間存在たちは体と魂の連合により合成された動物たちであり、この方法[のみ]において我々は地上に住むことが可能であったのである。しかし神、つまり全ての事物の始まりである方は、合成的存在とはみなされるべきでない。そうでなければ、ひょっとすると、始まりそれ自体、つまりそこからあらゆるものが、合成物と呼ばれるものは何であれ、合成されたところの方より先立つ諸要素が存在したとなってしまうであろう。精神は、どんな行為や動きを実行するためにも、[物]体的な大きさを要請しない。つまり、目がより大きな大きさの諸[物]体を見つめることによって拡げられるが、より小さな諸対象を見るためには圧縮され収縮される、というような[ことを精神は要請しない]。精神はたしかに理知的な種の大きさは要請する。それは、体の形成を追ってでなく、知性のそれを追って成長するからである。というのも精神は、体と一緒に、身体的付加という手段によって、生涯の二十年や三十年まで、拡大されるというものではない。知性は学ぶことの諸訓練によって鋭敏にされ、そのうちに植えつけられた理知的な諸目的のための諸々の力が呼び起こされているのである。そして[知性]は、[身]体的な付加によって増し加えられるのでなく、熟練した諸訓練によって注意深く磨かれて、より大きな理知的な諸々の努力ができるようにされているのである。しかしこれらを[知性]は少年の頃から、あるいは誕生から直ちに受けることはできない。なぜなら精神が自身を訓練するための諸器官として用いる諸々の肢体の枠組みが弱く、脆いからである。それで、自身の諸々の操作の重さに耐えることや、訓練を受ける能力を示すことができないのである。


(7)
もし今、精神自体や魂が[物]体であると考える者が誰かいるなら、どのようにしてそれが以下のような重大な、つまり困難で、微細な諸議題について諸々の理路と諸々の主張を受け取るのか、回答として彼らが私に教えるよう私は望む。どこからそれは記憶の力を引き出しているというのか? そしてどこから見えざる諸々の事柄を熟考するようになっているというのか? どのようにして[身]体が、体の無い諸々の存在を理解する機能を所有しているというのか? どのようにして[物]体的本性が、様々な学芸における過程を調べたり、諸事物の理路を熟考したりするというのか? またどのようにしてそれは神的な諸々の真理を、それらは明白に体の無いものであるのに、知覚し、理解できるというのか? 確かに、ある者たちは、以下のような意見となるようになる以外ないだろう。つまり、両目や両耳の、まさに[身]体的な形状や、形態が、聞くことや視ることに何らかの寄与をしており、また神に形成された個々の成員が、まさにそれらの形状の質からでさえ、それらが生来的に任じられた目的に適応しているように、魂や精神の形態もそのように、あたかも、個々の事物を知覚し理解するため、また生気的な諸々の動きによって作動させられるために、合目的的に、また故意的に、造られていると理解されるべきである、と考えるかもしれない。しかしながら私は、それが精神であり、理知的な存在として行為するということについて、精神の色は何であるか描写したり言明したりできるだろう者たちを知らない。さらに、我々が既に精神や魂について[議論を]進展したこと、つまりそれが[身]体的本性全体より良いという結果について、その確認と説明のため、以下の諸々の所見を加えることができよう。あらゆる[身]体的感覚にはその下に、[身]体的感覚が自身を行使するところのある特定の感知可能な実体がある。例えば、諸々の色、形状、大きさは視覚の下にあり、諸々の声と音は聴覚、良いまたは悪い香りは嗅覚に、諸々の飲食は味覚に、熱さや冷たさ、硬さや柔らかさ、粗さや滑らかさは触覚[の下にある]。さて、上に数え上げられたこれらの感覚について、精神の感覚はより優れて最良であることは、全ての者にとって明白である。それらのより劣った諸感覚のもとには、それらの諸[感覚]の力が行使されるべく置かれるはずの諸実体があるというのに、この力、つまり他のどんな[感覚]よりもずっとより優れているもの、すなわち精神の感覚の下には、実体的本性をもつものは置かれないはずである、などという、また理知的本性の力は偶発的な、あるいは諸[身]体の結果起こるものである、などという[考え]を、どのようにして不合理でないなどと思えるのだろうか? これを断言する者たちは疑いなく、そのようにして、彼らの内にあるより優れた実体の蔑視にまで至る。いや、そうすることによって、神自身に対してさえ誤りを為す。それはつまり、彼は[物]体的性質によって理解され得ると彼らが想像する時に[その誤りを為す]。それで、彼らの見解によれば、彼は[物]体であり、[身]体によって理解され知覚され得る方である、となるのである。そして、精神はとある関係を神に対して持っている、と理解されるようには彼らはしたがらない。つまり[その関係とは]精神自身、その方の理知的な像であり、この手段によって神位の本性についてのいくらかの知識に到達し得るということである。そしてそれは、[物]体的な物質から純化され分離されている場合に特にそうなのである。


(8)
しかしひょっとするとこれらの諸宣言は、神的な諸事物について聖書群から指導されることを願う者たち、またどんなに神の本性が諸[物]体の本性を上回っているかをその典拠[(聖書)]から証明されることを求める者たちにとっては、より小さな重要度を持つと思われるだろう。それゆえ、かの使徒が、キリストについて語って「彼は見えざる神の像であり、あらゆる被造物の長子である」[コロサイ 1:15]と宣言する際に、同じことを言わない場合を考えよう。ある者たちが思うように、「神の本性はある者たちには見えるもので、他の者たちには見えざるものである」ではない。というのも、かの使徒は「『人々には』見えざる神の像」だとか、「『罪人たちには』見えざる」だとかは言わずに、不変の継続性を持って、これらの「見えざる神の像である」という言葉において神の本性について宣言しているのである。さらに、ヨハネは、彼の福音書において「いかなる時においても神を見た者はいない」[ヨハネ 1:18]と主張する際に、理解する能力のある全ての者たちに対して、神が見えるものとなるような本性は無い、と明白に宣言しているのである。それはあたかも彼が生来的には見える存在でありながら、単にか弱い被造物の視界を避けている、あるいは妨げている、というのではない。彼の存在の本性によって彼は見られることができないからである。もし私に、唯一生まれし者自身に関して、つまり神の本性は本性的に見えざるものであって、彼[唯一生まれし者]にさえ見えざるものであるのかどうかに関して、の私の意見が何であるかを尋ねるならば、すぐそのような問いが不合理とも不敬虔とも思われないようにしよう。我々は[それについて]論理的な理路を与えるからである。一つの事物は見るべきものであり、もう一つは知るべきものである。見ることと見られることは諸[物]体の属性であり、知ることと知られることは理知的存在の特質である。それゆえ、諸[物]体の属性は何であれ、御父についても御子についても、叙述され得ない。一方で神格の本性に属することは御父と御子に共通である。結局、彼自身でさえ、福音書において「御父を見た者は、御子以外に誰も無く、御子を[見た者]は御父以外に[誰も無い]」とは言わなかった、彼の言葉は「御子を知る者は御父以外に誰も無く、御父を[知る者]は御子以外に[誰も無い]」である。これによって、[物]体的諸本性の間では見るとか見られるとか呼ばれることは何であれ、御父と御子の間では知るとか知られるという言い方がされるのである。それ[知るということ]は知識の力によっており、脆弱な視覚にはよってないのである。それで、見ることも見られることも、体の無い見えざる本性に対して適切に適用され得ないので、福音書において、御父は御子によって見られるとも、御子が御父によって[見られる]とも言われず、一方は他方に知られていると言われるのである。


(9)
ここで、「心の純粋な者は祝福されている。彼らは神を見る」[マタイ 5:8]と言われている文章を我々に誰かが提示するならば、私の意見では、まさにその文章から、我々の立場は追加の強みを引き出すだろう。というのも、上記の我々の解説に従えば、「精神を以って彼を知ること」以外の何が「心で神を見ること」なのだろうか。というのも、諸々の感覚器の諸々の名前はしばしば魂について適用されているので、それが、心の両目で見る、と言われ得るのである。それはつまり知性の力によって理知的な行為を実行するということである。それである言明のより深い意味を知覚する際に、両耳で聞く、ともそれ[(心)]は言われるのである。またそれで、天から降り来る命のパンを咀嚼し食べる際には、それ[(心)]は歯を利用している、と我々は言うのである。また同様にして、諸々の[身]体的な呼称から転じて魂の諸々の力について適用された[言い方で]、[心は]他の[身体の]成員の諸々の役目を用いている、と言われるのである。これは「あなたは神的な感覚を見出すだろう」というソロモンの言葉に従ってである。というのも彼は我々の内に二つの種の感覚があることを知っていたのである。一つは死を免れない、堕落しやすい、人間的なものである。他方は不死で理知的なもので、彼[(ソロモン)]がここで神的という言い方をしているものである。それゆえこの神的な感覚によって、両目の[感覚]でなく純粋な心の[感覚]、つまり精神によって、神は相応しい者たちによって見られ得るのである。というのも、旧[約]も新[約]も両方の全ての聖書群において、「心」という用語が繰り返し「精神」、すなわち理知的な力の代わりに用いられていることを誰もが確実に見出すだろうから。それゆえ、このようにして、議題の尊厳には遥かに及ばないが、我々は神の本性について語った。それは我々は人間の理解の制限下で理解するものたちのようにである。次の所では、キリストの名によって何が意味されているのかを見よう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?