『諸原理について』第一巻 2章「キリストについて」1-5節(オリゲネス)
第2章 キリストについて
(1)
第一に、彼が唯一生まれし神の御子であるという観点において、キリストのうちにあるその神格の本性が一つのものであるということ、そしてこれら終わりの諸時代において経綸の諸目的のため彼が引き受けた、その人間本性がもう一つのものであるということを、我々は書き留めなければならない。それゆえ我々は第一に、唯一生まれし神の御子とは何であるかを確認しなければならない。彼が諸々の状況や個々の視点に従って、多くの異なった諸々の名で呼ばれているのを我々は見るのだから。彼はソロモンの表現に従えば「知恵」という言い方をされる。「主は私を創造した。彼の諸々の道の始原として。彼の諸々の業のうちで、彼が何か他のものを造る前に。彼は私を諸時代の前に設立した。始原において、彼が地を形成する前、彼が諸々の水の泉を生み出す前、山々が強大にされる前、全ての諸々の丘の前に、彼は私を生み出した。」 [箴言 8:22-25]彼はまた「長子」とも称される。かの使徒が宣言するごとくである。「この方はあらゆる被造物の長子である。」 [コロサイ 1:15]しかし「長子」は生来的に「知恵」と異なった位格ではなく、[これらは]一つであり、同じである。結局、使徒パウロは「キリスト、すなわち神の力であり、神の知恵である方」[第1コリント 1:24]と言うのである。
(2)
しかし誰も、我々が彼を神の知恵と呼ぶ際に何か非人格的なものを意味していると想像しないようにしよう。あるいは例えば、彼は知恵において豊かな、生ける存在でなく、その諸々の徳と知性を受け取ることができるようにされた者たちの諸精神に、それ自身を与え、それ自身を植え付けて、人々を賢くするような何かである、などと我々が理解していると思うようなこと[のないようにしよう]。それで、唯一生まれし神の御子が、位格的に存在する彼の知恵であると一度正しく理解されたとしても、我々の好奇心がこのことを越えて進歩するべきかどうかを私は知らない。あるいは、体を有するあらゆるものは、形状や色や大きさによって区別されるので、そのυποστασις[(ヒュポスタシス、自立存在)]あるいはSubstantia[(スプスタンシア、本質)]も何か[物]体的性質を含む、という嫌疑を歓迎すべきかどうか[も私は知らない]。知恵であるという観点において、誰が、自分の健全な諸感覚を以って、形状や色や大きさを知恵のうちに探したことがあるというのか? また、神に関する崇敬の思いや気持ちを歓迎できる者の誰が、御父なる神が、一瞬の時でさえ、この「知恵」を生み出さないまま存在したことがあると思ったり信じたりできるというのか? というのも、この場合、彼は以下のどちらかのように言わなければならない。つまり、神はそれ[(知恵)]を産む前は、「知恵」を生み出す能力が無かったので、後になってからかつて存在しなかったそれを存在させるようにした[と言う]。あるいは彼は確かにその力を所有していたのであるが、(不敬虔でない限り神について言えないことだが)その[力]を使いたくなかった[と言う]のである。これらの推測は両方とも、全ての者にとって明らかであるが、似たように不合理で不敬虔である。というのも、彼らは以下のどちらかに達しているのである。つまり神は能力の無い状態から能力の有る[状態]へと進歩したというか、その力を所有したのだが彼はそれを隠し、「知恵」を生み出すことを遅らせたというのである。そこで我々はいつも以下のように保持しているのである。つまり神は彼の唯一生まれし御子の御父である。[御子]は確かに彼より生まれ、[御子]が何者であるかは彼より引き出しており、それでも何らの始まりもないのである。何らかの時の区分によって測られ得るような[始まりがない]だけでなく、精神だけが自身の内で熟考し、いわば、理解の剥き出しの諸力で見ることができるような[始まり]さえないのである。それゆえ我々は、「知恵」は理解されたり表現されたりし得るどんな始まりよりも前に生み出されたと信じなくてはならない。そして続く創造の全ての創造的力はまさにこの「知恵」なる存在に含められており(原型を持つものについてであれ、派生的存在を持つものについてであれ)、前もって形成され、予知の力によって用意されていた。それはいわば、表現された、まさにこれらの被造物のためのものであり、それらは「知恵」自身のうちで予兆されていたのである。ソロモンの諸々の言葉のうちで、知恵は、自分が神の諸々の道の始原として創造された、と言っているのである。それは[知恵]が自身のうちに、全ての被造物についての、諸々の始原や、諸々の形状や、諸々の種を、含んでいるからである。
(3)
今、「知恵」は神の諸々の道の始原であり、そして創造されたと言われており、全ての被造物の諸々の種と諸々の始原を前もって形成し自身のうちに含んでいたと我々が理解したのと同じように、我々は[「知恵」]を神の「言葉」であると理解しなくてはならない。なぜなら[「知恵」]は全ての他の諸々の存在に対して、つまり全宇宙の被造物に対して、神的な知恵の内に含まれる諸々の奥義と諸々の秘密の本性を露わにするからである。そしてこのために、[「知恵」]は「言葉」とよばれる。[(知恵)]はあたかも、精神の秘密の通訳者だからである。それゆえパウロの行伝において、「ここに生ける存在である言葉がある」と言われている[ところ]に見られるその言語は私には正しく使われているように思える。しかしヨハネは、より崇高さと礼儀をもって、彼の福音書の始原において、言葉であるという特別な定義によって神を定義する際にこう言っている。「そして神なるは言葉であった。そしてこれは始原において神と共にあった。」[ヨハネ 1:1]それで、神の「言葉」や「知恵」に始まりを帰する者には、生まれぬ御父自身に対して不敬虔の有罪にならぬよう注意しよう。そのような者は彼がいつも御父であったことを否定しているのだから。[御父はいつも]「言葉」を生み出し、「知恵」を所有してきた。それは時間であれ時代であれ、そのように冠され得るどんなものであれ、全ての先立つ期間においてそうなのである。
(4)
この御子は、従って、全ての存在する諸事物の真理かつ生命でもある。そして[この]理路が[以下である]。というのも、それらの創造された諸事物は、それらが生命から自分たちの存在を引き出さない限り、如何にして生き得るだろうか? あるいはそれらある諸事物は、真理から生じたのでない限り、如何にして真に存在し得るだろうか? また「言葉」あるいは理路が先立って存在しない限り、如何にして理路的な存在が存在し得るだろうか? あるいは知恵があるのでない限り、如何にしてそれらは賢くあり得るだろうか? しかしある者たちが生命から落ち去ることになり、自分たちの屈折によって死を自分たち自身にもたらすことになるということが起こったが(というのも死とは生命からの離脱に他ならない)、それはかつて神によって生命の享受のために創造されたそれらの諸事物が全的に破滅することになっているということに伴っているというのではないのだから、以下が必然である。すなわち死の前に、来たる死を破壊するようなある力が存在するべきであり、復活があるべきである。[復活]の予型は我らの主で救助者なる方にある。またこの復活は神の知恵と言葉と生命にその根拠を持つべきである。そしてそれから、次に、それらの創造された者たちのある者たちは、彼らの所有した諸々の祝福を平穏に節度を持って享受することに変わらずに変えられずに留まることをいつも意志するわけではない。むしろそれらのうちにある善が本性や本質によってそれらのものであるのでなく付随的なものであることの結果として、変質させられ、変えられることになり、自分たちの立場から落ち去ってしまうことになることが[常で]あった、それゆえ神の「言葉」で「知恵」なる者が「道」を成したのである。そしてそれがそのように呼称されたのは、それに沿って歩く者たちをそれが御父へと導くからであった。
それゆえ神の知恵について我々が叙述したことは何であれ、適切に神の御子について適用され理解されるであろう。すなわち彼が「生命」であり、「言葉」であり、「真理」であり、「復活」であるということによってである。というのもこれら全ての諸称号は彼の力と諸々の作業から引き出されている。そしてそれらのどれにおいても、大きさや形状や色を示すような何らかの有体的な性質を理解する少しの根拠もない。というのも我々の間に現れる人々の子らや、他の生き物の子孫たちは、彼らを生んだ者たちの胤と一致しており、また彼らを形成し養った胎を持つ母からあらゆるものを引き出して、この生命へと持ち込み、生まれる際に携えてくるのである。しかし御父なる神を、その唯一生まれし御子の産生において、また同じ方の本質において、そのような行為に関わる人や他の生き物と比肩させることは、非道であり不法である。というのも我々は必然的に、神について、どんな比較も全く認めない、例外的で[神に]相応する[何かがある]ということを保持せざるを得ないのである。それは諸事物との[比較]だけでなく、むしろ生まれぬ神が如何にして唯一生まれぬ御子の御父と成されたのか人間の思考が把握することができるための[どんな]思考によっても想像され得ず、あるいは[どんな]知覚によっても発見され得ないようなものである。彼の産生は永遠であり永続的であり、それは太陽から産み出される輝きのようであるからである。というのも彼が御子と成されたのは生命の息吹を受け取ることによってではなく、如何なる外的行為にもよらず、ただ彼自身の本性によることなのである。
(5)
さて我々が提示したこれらの諸言明が如何にして聖なる書物の権威によって支えられているかを確かめよう。使徒パウロは唯一の生まれし御子を「見えざる神の像」、そして「あらゆる被造物の長子」と言っている。そしてヘブル人へと書き送る際に、[パウロ]は彼について「彼の栄光の輝きであり、彼の位格の明示的な像」と言っている。さて、ソロモンの知恵と呼ばれる論考のうちに、神の知恵についての以下のような描写を我々は見出す。「というのも[知恵]は神の力の息吹であり、全能者の栄光の最も純粋な流出である。」 それゆえ[神の知恵]には汚染されたものは何も近づかない。というのも[知恵]は永遠の光の輝きであり、神の働きの汚れなき鏡であり、彼の善の像である。さて我々は前[述]のように、「知恵」はその存在を、全ての諸事物の始原である彼のうちを措いて他のどこにも持っていない。その者から知恵あるあらゆる者も引き出されている。それは彼自身が本性的に御子である唯一の者であり、それゆえ唯一生まれし者と呼称されているのである。
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