旧新約リスト アタナシオス(AD 367)

http://www.newadvent.org/fathers/2806039.htm

より。

http://www.earlychurchtexts.com/main/athanasius/festal_letter_39.shtml


第39復活祭書簡(AD 367 アタナシオス)

アレクサンドリアのアタナシオスは、アレイオス(アリウス)に反駁しニケーア公会議(AD 325)を主導した神学者である。

アレクサンドリアでは年に一度、復活祭の日程を布告する書簡が主教によって書かれ、近隣の教会や修道院に送付された。アレクサンドリア主教アタナシオスによる第39番目(AD 367)の復活祭書簡には旧新約聖書のリストが付されている。

新約聖書はカルケドン派の聖書と共通する。エステル記を明確に外典に置いている。ユディト、トビトを外典に置き、エレミヤの手紙、バルク書を正典に含めている。


:::::以下訳文:::::

(1)
彼らは彼らが諸目録の諸書と呼ぶ諸書を偽造した。そのうちで彼らは諸々の星を示し、それらに聖徒たちの諸々の名を与えている。真にそこにおいて、彼らは彼ら自身に二重の咎を課している。そのような諸書を書いた者たちは、虚偽で卑劣な知識に熟達しているゆえに。そして彼らは無知で単純な者たちについて、邪悪な諸々の考えによって彼らを迷わせたのであるから。[悪しき考えとは]全ての真理において確立され神の前に真っ直ぐ立った正しい信仰に関することである。


(2)
しかし我々は諸々の異端について死んだ者と言及したが、我々自身については救済のための神的な聖書群を所有していると[言及した]。また私は以下のように心配している。つまりパウロがコリントの者たちに書いたように、単純な者たちのうちのあるわずかな者たちが、とある人々の「狡猾さによって、その単純さと純粋さから誘き出され」[2コリント11:3]、ここから他の諸書、つまり偽典[アポクリファ]と呼ばれる諸書を、真実な諸書とそれらの名前が似ていることに迷わされて読むことにならないか[恐れている]。それゆえ、教会の義務と優位性の影響下にあってあなたがたがよく知っている問題について私がまた想起させるべく書いているとしても、忍耐強く耐えるようあなたがたに請う。


(3)
これらの諸々のことに言及し始めるにあたって、私は私の引き受けたことを推奨するため、私自身のため以下のように言う福音記者ルカの模範を採ろう。自分たちのため、偽典と言われる諸書を戻し入れ、神的に霊感を受けた聖書にそれらを混ぜることに、「ある者たちが着手してきた故に」[ルカ 1:1]。[聖書]に関しては、「我々の間で十全に信じられているもの」である。それは教父たちへ「始めから目撃者であり御言葉の管理者であった者たちが伝えた」ものなのである。それ故、私もまた、真実の兄弟たちによってそこへ促されてきて、始めから学んできているので、あなたがたに、正典のうちに含まれ、継承され、神的なものと認められている諸書を提示するのが良いと思われる。それは誤りに陥った者の誰かが自分を迷わせた者たちを弾劾できるようにするためであり、また純潔さにおいて確固とし続けた者が、これらのことを自分に想起させ、また喜ぶことができるようにするためである。


(4)
それで、旧約聖書については、数において二十二の諸書がある。というのも、私の聞いたところによれば、これがヘブライ人の間での文字の数であると継承されているのである。それらそれぞれの順序と諸々の名は以下のようになっている。第一は創世記、そして出エジプト記、次にレビ記、その後に民数記、そしてそれから申命記。これらに続いてヨシュア、すなわちヌンの子、があり、それから士師、それからルツ。そしてまた、これらの後に列王の四書、第一と第二が一書として数えられ、同様に第三と第四が一書として数えられる。そしてまた、歴代誌の第一と第二が一書として数えられる。また同様にエズラ記は、第一と第二が一書である。これらの後に、詩編の書があり、それから箴言、次に伝道者、そして雅歌。ヨブが続き、それから預言者たちが、十二の存在が一書として数えられる。それからイザヤが一書、それからエレミヤがバルクと哀歌と、そして書簡と共に、一書。その後、エゼキエルとダニエルが、それぞれ一緒ずつ。ここまでが旧約聖書を構成する。


(5)
また新約聖書の方についても語ることは冗長なことではない。四つの福音、マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネによるものがある。その後、使徒たちの行伝と(公同と呼ばれる)書簡が七つ、すなわちヤコブのものが一つ、ペテロのものが二つ、ヨハネのものが三つ、これらののち、ユダのもの一つある。加えて、パウロの十四書簡があり、この順序で書かれた。つまり第一にローマの者たちへ。そして二つをコリントの者たちへ。これらの後に、ガラテヤの者たちへ。次にエフェソの者たちへ。それからフィリピの者たちへ。それからコロサイの者たちへ。これらの後に、二つをテサロニケの者たちへ。そしてヘブライの者たちへ。そしてまた、二つをテモテへ。一つをテトスへ。それから最後に、フィレモンへ。そして他に、ヨハネの黙示録がある。


(6)
これらは救済の諸々の泉であり、渇いた者たちがそれらの含む生ける諸々の言葉で満たされることのできるものである。これらのうちだけに敬虔な教えが宣言されている。どんな人にもこれらに加えたり、これらから取り去ったりさせてはならない。これらに関しては主がサドカイ派の者たちを恥に置き、こう言った。「あなたがたは聖書群を知らないで、誤っている」。そして彼はユダヤ人をこう言って非難した。「聖書群を調べなさい。それらは私について証言しているのである。」[マタイ 22:29, ヨハネ 5:39]


(7)
しかしより重い正確さのため、この必要な文を私は加える。これら以外に、たしかに正典には含まれないが、我々に新しく加わり、敬虔な言葉においての指導を望む者たちによって読まれるよう教父たちによって定められた他の諸書があるのである。ソロモンの知恵、シラの知恵、エステル、ユディト、そしてトビト、そして使徒たちの教えと呼ばれるもの、そして牧者。しかし私の兄弟たちよ、前者は正典に含まれ、後者は[単に]読まれているのである。また偽典[アポクリファ]文書について言及する余地は無い。それらは諸々の異端の捏造であり、彼らは自分たちで選んだ時にそれらを書き、自分たちでの称賛をそれらに与え、そしてそれらにある日時を帰し、それらを古い文書として使う。彼らは単純な者たちを迷わせる機会を見つけられるようにしているのである。

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