マルコの福音書16章に関する古代教父の引用

マルコによる福音書の最終章16章は、バチカン写本(B, AD 4c)、シナイ写本(ℵ, AD 4c)、写本304(AD 12c)の三つのギリシア語写本において16章8節で終わっている。バチカン写本とシナイ写本は今日の聖書本文批評において極めて高い評価を得ているため、これら二つの証言を他の1600以上の写本よりも重視し、「マルコによる福音書16章9−20節はマルコによる福音書原本には含まれない、後世の加筆である」とする説が強い。

しかしバチカン写本( https://digi.vatlib.it/view/MSS_Vat.gr.1209 )とシナイ写本( http://www.codexsinaiticus.org/en/manuscript.aspx?dir=next&folioNo=4&lid=en&quireNo=77&side=v&zoomSlider=0 )は共に、マルコによる福音書とルカによる福音書の繋ぎ目の頁に、他の新約文書間の頁では見られない空欄や文字密度の減少があり、これらの写本の筆記者も当時既にマルコによる福音書の最終章に関して何らかの異常を知っていた可能性がある。

実際、紀元4世紀以前の教父引用には、彼らがマルコによる福音書16章9−20節を知っていたと思わせるものが残っており、マルコによる福音書のエピローグは「後世」の加筆であるとしてもバチカン写本やシナイ写本の作成時期より「後世」ではなく、十分前から存在したものである。

:::::以下訳文:::::

エイレナイオス(c. AD 180, スミルナ→リヨン→ローマ)『異端反駁』第3巻 10章5節

http://www.newadvent.org/fathers/0103310.htm

そこで、ペテロの通訳者であり弟子であったマルコも、そのように彼の福音書の物語を始めている。「神の子、イエス・キリストの福音の始め。預言者たちの[書]にこう書かれている。『見よ、私は私の使者をあなたの顔の前に遣わし、その者があなたの道を準備するであろう。荒野で呼ばわる者の声。主の道を備えよ、我らの神の前に道筋をまっすぐにせよ。』」 かの福音書の始まりは明白に聖なる預言者たちの諸々の言葉を引用し、神であり主であるとして彼らが告白している彼を一度に指し示している。つまり我らの主イエス・キリストの御父である方は、[キリスト]の顔の前に自分の使者、すなわちヨハネを遣わすことを[キリスト]に約束をした方でもある。ヨハネは荒野において、エリヤの霊と力[ルカ 1:17]において、「主の道を備え、我らの神の前の道筋をまっすぐにせよ」と呼ばわった者である。というのも預言者たちは一つの[神]と他のもう一つの神について告知してはおらず、一つの、同じ[神]について[告知]した。しかし様々な側面において、多くの称号を[持つ]のである。これに先立つ巻において既に私が示したように、神こそは属性において多様であり豊かである。私はこの課題のもっと先に進んで、[同じことを]預言者たち自身からも示そう。また、彼の福音書の結びに近づいて、マルコは言っている。「それで、主イエスは彼ら[弟子たち]に話し、天へと引き上げられ、神の右に着座した。」[マルコ 16:19] これはかの預言者によって話されたことを確証した。「主は私の主に言った。私の右側に着座せよ。私があなたの諸々の敵をあなたの足台とするまで。」 それゆえ神と御父は真実に一つの、同じ方である。預言者たちによって告知された方と、真実な福音書によって継承された方は。その方を、天地とそこにある全てのものの造物主として、我々キリスト者たちは崇拝し、心全体で愛している。


ユスティノス(c. AD 160, エフェソ→ローマ)『第一弁明』45章

http://www.newadvent.org/fathers/0126.htm

http://www.patristique.org/sites/patristique.org/IMG/pdf/justin_i_apologie.pdf

そして全世界の父なる神は、キリストを死者たちのうちから復活させた後に彼を天へと運び、[神]がその諸々の敵である悪霊たちを従えるまで[キリスト]をとどめるであろう。そしてそれは善良で高潔であると[神]に予め知られている者たちの数が満ちるまでであり、その者たちために[神]は終了[の時]を未だに遅らせているである。預言者ダビデによって言われたことを聞こう。これが彼の諸々の言葉である。「主は私の主に言った。私の右側に着座せよ。あなたの諸々の敵をあなたの足台と成すまで。主はあなたに力の杖をエルサレムから送り、そしてあなたの諸々の敵のただ中であなたを統治する。あなたの共には支配がある。あなたの力のその日において。あなたの聖者たちのすばらしさにおいて。私はあなたを朝の胎から生んだ。」[詩編 110:2-3] 彼が言っていることはこうである。「彼はエルサレムから力の杖をあなたに送る」は、力ある言葉の予言のことであり、彼の使徒たちが、エルサレムから進み出て行き、あらゆる場所で宣べ伝えた[言葉]である[ὂν ἀπὸ Ἱερουσαλὴμ οἱ ἀπόστολοι αὐτοῦ ἐξηλθόντες πανταχοῦ ἐκήρυξαν]



タティアノス(c. AD 170, シリア&ローマ)『ディアテッサロン(調和福音書)』55章

http://www.earlychristianwritings.com/text/diatessaron.html

(1節)しかし十一人の弟子はガリラヤへと入って行き、かの山々へと向かった。そこはイエスが

(2節)彼らを任命した[場所]である。そして彼らが[イエス]を見た時、彼らは[イエス]を礼拝した。しかしそこには

(3節)疑う者たちもいた。そして彼らがそこに座っている間に、[イエス]は彼らに再度現れ、彼らの信仰の欠如と彼らの心の頑なさを咎めた。彼らは[イエス]が復活した時[イエス]を見た者たちのことを信じなかったのである。

(4節)それでイエスは彼らに対して言った。「私は天における全ての権能を与えられた。

(5節)そして地における[全ての権能を与えられた]。そして私の父が私を遣わしたように、私もまたあなたがたを遣わす。さあ行け。

(6節)全世界へ。そして私の福音を全ての被造物に宣べ伝え、全ての民族を教え、

(7節)彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ。そして彼らに私があなたがたに命じたことは何であれ全て守るように教えよ。見よ、私は全ての日々においてあなたがたと共にいる。

(8節)世の終わりまで。というのも信じ、洗礼を受けた者は誰でも救われるであろう。しかし

(9節)信じない者たちは誰でも拒絶されるであろう。そして私を信じる者たちに伴う諸々のしるしは以下である。彼らは私の名において諸々の悪霊を追い出す。そして彼らは

(10節)新しい諸々の言葉において話す。そして彼らは蛇たちをつかみ、もし彼らが死に至る毒を飲んでも、それは彼らに何の害もなさない。そして彼らは彼らの手を病人たちへと置くと、

(11節)彼らは癒される。しかしあなたがたは、高きところからの力に覆われるまでは、エルサレム市に留まりなさい。



第七カルタゴ教会会議(AD 258) ThibarisのVincentiusの発言記録

http://www.newadvent.org/fathers/3816.htm

ThibarisのVincentiusが言った。「諸々の異端は諸々の異邦人たちよりも悪いということを知っている。それゆれもし、改宗して、彼らは主のもとに来ることを願うならば、我々は確かに真理の規定を持っている。それは主がその神的な教訓によって彼の使徒たちに命じたことである。彼はこのように言う。『行け。私の名において手を置き、悪霊たちを追い出せ。』そしてもう一箇所では『行け、国々を教え、彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けよ。』[マタイ 28:19] それゆえ全てことの第一に、祓いのために手を置くことによって、第二に洗礼による新生によって、彼らはキリストの約束に来たることができる。そうでないならば、私は[改宗は]為されてはならないと考える。」



カイサリアのエウセビオス(c. AD 314) 『福音書の諸問題と諸解決』 マリアノス宛 第1

http://bibletranslation.ws/down/Eusebius_Gospel_problems_and_solutions_2010.pdf

http://www.roger-pearse.com/weblog/2015/12/12/eusebius-of-caesarea-gospel-problems-and-solutions-now-online-in-english/

あなたの最初の質問はこうであった。「救い主の復活は明白にマタイにおいて『安息日の終わりに』起こっているが、マルコにおいて『週の第一の日の朝早くに』となっているのはどういうことか」

(1)この回答は二重になる。

この議題の実際の核心はこれを言う章句[自体]である。この章句に疑問符を付けるある者は、それがマルコによる福音書の全ての写本に見いだされるわけではないと言うであろう。[そのような者の主張は以下である。] 「正確な写本はマルコの報告を、かの女たちが見た、かの若い男の諸々の言葉で終えている。その者は彼女らに言った。『恐れるな。あなた方が探しているのはナザレのイエスである、云々』 その後にこう加えている。『彼女らがこれを聞いた時、彼女らは走り去り、誰にも何も言わなかった。彼女らは恐れていたからである。』 これがマルコによる福音書のほとんど全ての写本において文章が終わるところである。全てではない、ある写本群において時たま[これに]続くことは、付加されたものであろう。特に、それが他の福音記者の証拠と矛盾していることを何か含んでいるのであれば。」

さて以上が、[あなた]の質問を余分なものとして完全に除去し、拒否するような人の回答であろう。

(2)もう一つの見方は、諸福音書の文章において、何かに疑問符をつけるという[態度]とは全く異なっており、[その章句を]受け入れる者からのものである。[そのような者の主張は以下である。] 「そこには、多くの他の箇所のように、二重の読み方があり、両方が受け入れられるものである。信仰深く敬虔な者は、一方への選好のためにどちらか一方だけを受け入れられるものと判断するものではない。」

(3)後者の視点を正しいと認めることを考えると、この読みについての適切な扱いはその意味を解釈することである。もし我々が言葉の意味を分割するならば、マタイの諸々の言葉と、救い主の復活が「安息日の遅く」であったという趣旨に関して衝突にあることを見出すことがなくなる。なぜなら我々はマルコにおけるその諸々の言葉をこのように読むのである。つまり「朝早く復活し(Having risen again in the morning)」を休止と共に、「復活した(Having risen again)」の後に句点を入れて、続く諸々の言葉の前に意味における中断を作るのである。それで我々は「復活した」ことがマタイの「安息日の終わり」に遡って参照しよう。なぜならそれが復活の起こった時だからである。しかし次の部分は別の概念の部分を形成しているので、我々はそれをそれに続く諸々の言葉と繋げよう。「週の第一の日の朝早くに、彼はマグダラのマリアへ現れた。」となる。確証として、これはヨハネも我々に教えたことである。彼もまたイエスが週の第一の日の朝早くにマグダラの者に見られたと証言している。それゆえこのように、マルコにおいて彼は彼女に「朝早くに」現れたのである。朝早く起こったことは、復活ではない。それはそれより十分早く、マタイが保つように「安息日の終わりに」[起こったこと]である。[朝早く]とは彼がその復活の後に、マリアに現れた時である。その出現は復活のその時ではなく、「朝早く」であった。

このように時間の二点がここに在る。復活の[時]、つまり「安息日の終わり」と、救い主の現れの[時]、つまり「朝早く」である。これはマルコによって書かれたことで、「復活した」に休止を含めるようにして読まれるべき諸々の言葉で[書かれた]。それから次の諸々の言葉は我々の句点の後に読み上げられるべきものである。「週の第一の日の朝早くに彼はマグダラのマリアに現れた。彼女から彼は七つの悪霊を追い出したのである。



アフラハト(アディアバネ、c. AD 340)『証明』I-17 

http://www.newadvent.org/fathers/370101.htm

そしてまた我らの主が洗礼の秘跡をその使徒たちへと与えた際にも、[主]は彼らにこのように言った。「信じて洗礼を授けられる者は誰でも生きることになる。そして信じない者は誰でも咎められることになる。」また彼はその使徒たちへ言った。「もしあなたがたが信じて疑わないならば、あなたがたができないようなことは何もない。」[マタイ 21:22] というのも我らの主が海の大渦の上を歩いた際に、シモンもまたその信仰によって[主]と共に歩いたのである。しかし彼の信仰の点で、彼が疑い、沈み始めた際、我らの主は彼を「信仰の小さい者よ」と呼んだ。[マタイ 14:31] そして使徒たちが我らの主に頼んだ際には、[主]の両手による何事も懇願せず、[主]にこう言って懇願した。「我らの信仰を増してください。」[主]は彼らに言った。「もしあなたがたの内に信仰があるならば、山でさえあなたの前から移転するだろう。そして[主]は彼らに言った。「疑うな。シモンが、疑った際に海のただ中に沈み始めたように、あなたがたが世界のただ中に沈み込まないようにするためである。」そしてまた主はこのように言った。「これが信じる者たちのためのしるしとなる。彼らは新しい諸々の言語で話し、悪霊たちを追い出すことになる。そして彼らはその手を病人におき、[病人たち]は健康になされることになる。」[マルコ 16:17-18]


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