子どもたちへ、そして過去の私へ
私たちの多くは、人に迷惑をかけないように生きなさいと言われて育ち、そして多くの場合、その言葉は受け入れられ、実践されている。そのように見える。しかし、近頃の人々の行いを見聞きする限り、いつまでたっても周りに迷惑をかけ続けている人が増えているような印象を受ける。
ここで私は、そういった人たちを非難したり、糾弾したりしたいわけではない。
私も大いに人に迷惑をかけて生きているし、そもそも人に迷惑をかけないと生きていけないのが人間だと思っているからだ。
むしろ私は、なぜ迷惑をかけ続ける人が大量生産されるようになったか、という事の方が気になる。
なので、その理由を考えてみようと思う。
親は子供に、人に迷惑をかけないよう言い聞かせる。それは、その規範をこの社会が強く要請するからでもあり、その規範に従うことが、この社会で滞りなく生きていく上で重要である、と親が思っているからでもある。
親は子供の幸せを願う。「迷惑をかけてはいけない」と子供に言い聞かせることも、その規範を身に付けなかったことで、しなくていい苦労を子供が経験しなくて済むようにとの思いからだ。後に幸せに生きて欲しい、という、親の愛ゆえの行為である。
しかし、現状を眺めると、どうもうまくいっていないという思いを抱かずにはいられない。
迷惑をかけてはいけない
このあまりにも強固な規範が、親をも子をも苦しめている。上でも述べたが、人に迷惑をかけずに生きていくことはできない。もし、赤ちゃんが「お母さん寝不足で辛そうだから寝かしてあげよう」と泣きやんだとしたら。もし、幼児が「紙おむつ代がバカにならないからなるべくトイレで用を足そう」などと考えているとしたら、もはやそれはホラーである。
子供は親に迷惑をかけないと生きていけないし、成長して社会とのつながりが増えれば増えるほど、迷惑をかける人の数も増えていかざるをえない。
だが、それでいいのである。
生きていくために、子供には周りに迷惑をかける権利がある。
迷惑をかけて申し訳ない、と子供に思わせてはいけない。そんな事柄、探せばキリがない。その度に申し訳ないと思っていては、そのうち、「自分の存在は社会の迷惑なんだ」「そんな自分は生きている価値なんてない」「死んでしまった方がいい」との思いに発展してしまいかねない。いや、この社会には、すでにそんな子どもがたくさん存在してしまっている。
「迷惑をかけてはいけない」という社会的な圧力が、子供に感じなくていい罪の意識を植え付け、子供を死へと追いやっている。これこそ、今、この社会で起きていることなのである。
その一方で、クレーム、煽り運転、炎上、叩き・・・子供を卒業したはずの人たちは、人に迷惑をかけまくり続けている。
この逆転現象はどういうことだろうか?
なぜ子供が必要以上に罪悪感を覚え、死さえも考えてしまうその規範を、子どもを卒業したはずの人たちが犯しまくっているのか。
そこには、やはり、幼少期からのその規範の押し付けが関わっているのではないだろうか。
迷惑をかけても許される子供時代に迷惑をかけないよう行動を制限された結果、その反動として、親の管理下から解放された途端、今まで抑圧されてきたものが、一気に噴き出してしまっている。
まるで、押さえつけられていたホースから、水が一気に噴き出すかのように。
もしこの仮説が妥当だとすると、子供が周りに迷惑をかけることを親も社会も歓迎することが、大人の迷惑行為を減らすことに寄与するのかもしれない。
私は、絶賛、親やその他周りの大人に迷惑をかけまくっている。そしてありがたいことに、大いに迷惑をかけなさい、と言い、私が迷惑をかけることを歓迎してくれる大人たちに恵まれている。
それが私を、現在進行形で救っているように、私も、私の後に続く子供たちにとって、そういう存在になりたいと強く思う。
いや、なるのだ。