終わりの始まり
どうも!
不登校サバイバー
Welbeの平田真己です。
今日は、「学校行きたくない」は終わりの始まりだ、ということについて書いていこうと思います。
何の”終わりの始まり”かというと、その子の人生です。
冒頭から重いことを言いって申し訳ありませんが、私の経験やメディアなどで見聞きすることを勘案すると、これが事実なのだという思いが強まる一方なのです。
いまや多くの不登校に関わる人たち(当事者、カウンセラー、支援者等々)が「学校行きたくない」は危険度MAX、最終段階だ、ということを言っています。
私もそうだと思います。
行きしぶる
朝起きられない
朝お腹が痛くなる
学校のことが手につかなくなる
など、子どもは「学校に行きたくない」サインを出し続けています。
「勉強がわからない」「学校がつらい」「友達が・・・」等々、学校でのことに関する心配や不安、愚痴は、すべてと言っていいほど「学校行きたくない」の言い換えです。
ただ、「学校行きたくない」という言葉だけは、言わないんです。
言わない、というより、言えないのです。
行かなきゃいけないのがわかっているから。
言ったところで「行きなさい」と言われるのがオチだとわかっているから。
でも、学校に行きたくない。
だから、”サイン”を出し続けます。
親ならわかってくれるはず。
そんな思いもあります。
サインを出し続けながら、親が「休んでいいよ」と言ってくれるのを待ち続けています。
でも、親も超能力者ではないので、なかなか気づいてくれません。
親自身の価値観や世間の価値観がそのサインに気づけなくさせている場合、子どもに対する期待や不安から、薄々気づいていても認められなくて見ないようにする場合、どちらもあると思います。
そうやって気づいてくれないことが続くと、子どももわかってきます。
言わないと気づいてくれないのだ、と。
でもやっぱり、言わなくてもわかってほしい、という気持ちは消せません。
私のこと愛してくれてたら、わかってくれてたら気づいてくれるはず。多くの子どもはそう思っているのではないかなと思います。
だから、傷つきます。
こんなに”サイン”を出しているのに、どうして気づいてくれないの?
私のこと愛していないのかな…?
そう思ってしまいます。
親は気づかない、わかってくれない、つまり親は私のことを愛していないと認めないと、「学校行きたくない」は言えないのです。
言わなくてもわかってくれるはず
それが愛されているということだ
そう思っている状態で、親に自分の気持ちを言うことは、親に「私はあなたのことを信頼していない」と言うことと同義なのです。
子どもにとってそんなつらいことはありません。
でも、学校に行くのはもっとつらい。
もう、苦渋の決断です。
どちらもつらいけど、僅差で学校に行くほうが辛さが勝っている。
だから、不安に怯えながらも勇気を出して言うのです。
以上のことが、「学校行きたくない」はその子の人生の終わりの始まりだ、という理由です。
さて、「学校行きたくない」という言葉。そう言うだけでもものすごくエネルギーを消耗します。
そこでさらに、その言葉を受け容れもらえなかったり否定されたりしたらどうでしょう?
もう、絶望です。
生と死の間で揺れ動いていたシーソーが、一気にガクンと死に傾きます。
「学校行きたくない」は子どもからの最後通牒です。
これでダメだったら、死ぬよ
という。
どうか、この言葉が子どもの口から出たら、真剣に、重みをもって受け容れ、そして耳を傾けてください。
子どもの生命をこの世に繋ぎとめておくために。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。