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不登校は「治す」ものなのか

どうも!
Welbeの平田真己です。

今日は、不登校に関する私の疑問について書いていきたいと思います。


不登校になってから
なにかと

「不登校」

という言葉が
目から耳から入ってくるようになりました。

とくに
図書館や本屋さんに行ったとき
本のタイトルに
「不登校」
とついていると気になります。

タイトルだけ見て素通りするときと
手にとって読んでみるとき
どちらもあります。

ときどき
「不登校は治せる」
というようなタイトルの本を見かけます。

虫唾が走ります。
読みません。
以上です。

…というわけにもいかないので
なぜ
違和感というか
怒りというか
釈然としないモヤモヤ感を抱いてしまうのか
について書いてみようと思います。


率直な気持ちとして
「治す」
って
不登校は病気なん?
はぁ?
って感じです。

もちろん
自律神経の乱れが引き起こす諸症状(起立性調節障害しか思い浮かばない…)や鬱症状で不登校になることもあります。

そういう場合には
精神科や心療内科など
然るべき医療機関を受診し
「(投薬)治療」をする
という選択肢も考えられます。

そういった症状を
「治す」
というならまだしも
「不登校」
を治すって
なんなん?
って感じです。

「治す」
ってなんだか
「不登校」
が悪いことみたいじゃないですか。
決してそんなことないのに。

死なないために
生き続けるために
自分を守っている

それが
「不登校」
という状態なのです。

だから
「不登校を治す」
という表現が私は嫌なのです。

そういう気持ちを踏まえて
あえて、あえて!
「不登校」を
病気に例えるなら
「癌細胞」
だと私は思います。

癌細胞は
もともと
ただの細胞です。

そして
完治ということはありません。
(いまのところは、です。詳しくはわかりませんが…)


寛解という言葉があります。

「一時的あるいは永続的に、がん(腫瘍)が縮小または消失している状態のこと。」
(国立がん研究センター「がん情報サービス」用語集より引用)

という意味です。

癌細胞は”完全に”はなくならないんですね。

というか
もともと
ただの細胞なのだから
どの細胞も癌になる可能性を持っているのです。

癌になった人
癌になっていない人

関係なく
その人の細胞一つひとつは
癌になる可能性を抱えている。

そして
たとえ
治療をして
癌細胞が消えたとしても
「癌になった」
という事実はなくなりません。

自分が癌になった
あるいは
家族が癌になった
というと

だいたい
ああー…
という反応が返ってきます。

伝えられた側も
どう反応していいのかわからない。
無反応なのも
あまり残念そうにするのも
どちらもなんだか違うような気がして
曖昧な反応になってしまう。

「不登校」も似ています。
誰だってそうなる可能性がある。

そして
そこから抜け出せたとしても
「不登校だった」
という事実は消えない。

たとえ
消したい
隠したい
過去だとしても。

なくなりません。
一生ついてきます。
逃げれば逃げるほど。

だからこそ
自分の一部として

認める
受容れる
つつみこむ

これがいかに重要か。

でも、それはひとりではとても難しい。
自己否定の無限スパイラルのただなかにあってはとくに。

私は

たまたま
ほんとに
たまたま

だめだめ(だと思っていた)自分を

認め
受容れ
包み込む

ことをしてくださる方々と場に出逢えました。

自分では難しかったけれど
他者からもらい続けることで
だんだん
自分でも自分を

認め
受容れ
包み込む

ことができるようになりました。

このご縁には
ほんとうに感謝しています。

そして
このご縁のはじまり
それを作ってくれた母にも。

今日はこのあたりで筆をおこうと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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