無価値観
どうも!
不登校サバイバー
Welbeの平田真己です。
昨日は
死を選ぶ人には
死がこの世の辛苦からの最後の逃げ道だという感覚がある
ということについて書きました。
今日はその続きです。
なぜいとも簡単に死を選んでしまうのか
ぐるぐる考えて最後に行きついたのは
自分をそこまで大事に思えないからだ
ということです。
なんと身も蓋もないことを、と思いますが
それが一番しっくりくる感覚です。
自分なんていてもいなくても変わらない
自分が死んでもこの世界は何事もなかったかのように進んでいくのだろう
そんな諦念があります。
そう自分が思っているだけなのか
誰かからそう思わされているのか
きっとどちらもあるでしょう。
自分の価値観と社会の価値観
その両輪で
「自分の命なんてどうでもいい」
という思いを深めているようです。
自分の命を大事に思えない感覚が根底にあるので、いくら自分を大切に思ってくれている人たちがいたとしても、それがこの世に生を繋ぎとめておくものにはなり得ません。
だって、大切に思ってもらえていることを信じられないから。
「自分の能力に自信はあるけど
自分の存在には自信がない」
先日、あるテレビ番組で紹介されていた言葉です。
とても共鳴しました。
番組のテーマは
友人を自死で亡くした者の苦悩。
番組に出ていたのは
20年来の友人を亡くした声優でした。
ご遺族の厚意で遺品整理に同席し
その中で故人の残したノートに
上記の言葉を見つけたそうです。
その友人はいわゆる”エリート”だったそうです。
大学を卒業して有名企業に勤め
周りから見れば、自死を選ぶほど追い詰められていた様子はなかった、と。
この方の例は社会の歪みをよく表しているように思えてなりません。
閑話休題
なぜこの言葉にそこまで共鳴したのか。
それは、この言葉が
私が自分の存在に対して抱いている感覚
そのものだったからです。
「学校」という枠組みの中で
私は私の能力には自信がありました。
成績は常にトップ10%に入っていたし
部活ではパートリーダーに選ばれていました。
周りが自分の能力を評価してくれるのはとても嬉しかった。周囲の期待に応えようと頑張りました。努力すればするだけ結果もついてきました。
しかし、評価されればされるほど
評価を失うことへの恐怖も膨らんでいきました。
もし評価されなくなったらどうしよう
その恐怖心は
他者からの評価があるから私の存在は認められている
という脅迫観念へと変質していきました。
存在が認められているのは
まこではなく”勉強ができる”まこである
いつのまにか
他者からの評価がないと自分の存在の確かさを感じられなくなりました。
だからこそ
「学校に行く」と「死」
という不等価な2択が
等価になってしまうのだと思います。
「学校」は私にとって「他者の評価に晒される場」でした。それは辛くもあったけれど、同時に私の存在の確かさを保証してくれる場でもありました。
学校に行けない、というのはつまり
「評価される場」がなくなるということです。
私の存在の確かさを証明してくれる場がなくなる。
これからどうやって自分の存在を認めてもらったらいいんだろう?
「学校に行けない」ことが自分の存在の認められなさを拡大させていることはわかっている。
でも、「学校」に戻るのは死んでも嫌だ。
どんどん自分の存在が認められなくなるような感覚。
自分が自分の存在を信じられない
さらに他者からも存在を認められない
これが当時の私の見る「現実」でした。
こうなると
自分の命なんかどうでもええわ
ってなっていくんですよね…
最後までお読みいただきありがとうございました。
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