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無償の愛

どうも!
不登校サバイバー
Welbeの平田真己です。

今日は
無償の愛への憧れについて
書いていこうと思います。

私には祖父母がいません。
父方も母方も私が小学校を卒業するまでに亡くなりました。
おじいちゃんはどちらも、私が物心つく前に亡くなったので、全く記憶にありません。
おばあちゃんも2人とも、私が物心つく頃には病床にあり、元気な姿はほぼ覚えていません。

日常の何気ない会話で祖父母の話題になると
いつも「いいなぁ…」と思います。
そういう話題ってだいたい
おばあちゃんにあれ買ってもらったとか
おじいちゃんにお小遣いもらったとか
おじいちゃんおばあちゃんはいつも可愛がってくれるとか
祖父母に何か与えてもらったという内容です。
それはものの場合もあるし精神的な充足感のこともある。
いまもそんな存在がいていいなぁと思います。

祖父母と孫、という関係性は
親と子のそれとは違う、とよく言われます。
親は子どものあれこれに責任を負っているけど
祖父母は孫についてそういう責任の外にいる。
だから、孫に甘々になりやすい。
家庭によって差はあると思いますが、
私の知る限りの事例では、大方そうだという感じがします。

私の勝手なイメージですが
祖父母は親とは違う形で「無償の愛」を与えてくれる存在だと思います。
親が満たせない部分を祖父母が補っているような気がするのです。

私にとって祖父母はそういう存在ではありませんでした。そういうことができる状態ではなかった、といったほうがいいでしょう。
それは仕方のないことです。

でも、全くそういう存在がいなかったわけでもありません。
叔父のひとりが、私にとっての祖父母的存在でした。
その叔父は、欲しいものをなんでも買い与えてくれました。
たまにしか会えないのもあり、嬉しくてそうしてくれたのだと思います。
私はその叔父が大好きでした。
叔父は、私が小学1年生のときに亡くなりました。悲しみはさほど感じませんでした。幼かった私は、叔父の死を理解できなかったのかもしれません。

いまになって、その叔父の存在が私にとっていかに大きなものであったかがわかります。
叔父は、私が欲しい形で「愛情」を注いでくれる存在でした。両親は買ってくれないおもちゃや食べ物をなんでも買ってくれました。ただ私がいるだけで喜んでくれました。当時の私にとってはそれが、親からはもらえない「愛情」の形でした。

その後のさまざまな出来事から
親は私を「条件つき」でしか愛してくれない
と思うようになったこともあり
いまでも祖父母的な「無償の愛」は私にとって憧憬の対象です。

どうして親の愛は「条件つき」だと思うようになってしまうんでしょうね…

最後までお読みいただきありがとうございました。

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