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死なないように生きる

どうも!
不登校サバイバー
Welbeの平田真己です。

今日は
死なずにいるだけで精一杯だったということについて書いていこうと思います。

昨日、『暇と退屈の倫理学』という本を読んでいて、ふと

不登校のとき何もやってなかったけど
暇でも退屈でもなかったな

と気づきました。

なぜ暇でも退屈でもなかったのか

それはひたすら「学校に行けない自分」と向き合っていたからだと思います。

なぜ学校に行けないのか

親が訊く何十倍何百倍も
自分で自分に問いました。
答えになりうるようなものは
何も出てきませんでした。

答えの出ない問いを繰り返しては
何もない自分に絶望する日々

そんなことを続けているうちに
だんだんと

なぜ私は生きているのか

と問うようになりました。

そのとき私は
生きる意味を見失っていました。

学校に行けない
何もできない自分が
生きている意味はあるのか

私が消えてなくなれば
私の辛さ苦しさも一緒に消えてなくなるんじゃないか

もうこれ以上耐えられない
はやく楽になりたい

頭の中はそればかりでした。

当時はSNSもやってなかったし
人との繋がりも絶っていたので
胸の中に渦巻くそんな思いを
吐き出せる場もありませんでした。

この暗闇から抜け出すには

その問いに対する答えは
「死」しかなかった。

当時の私は
死への欲動を抱えて生きていました。
死を期待していました。
死が唯一の救いでした。

その一方で
死への恐怖も抱いていました。
自分で自分を殺す勇気はなかった。
痛みも苦しさもなく一瞬でいきたいけれど
どうやったらそうできるのかわかりませんでした。

いま振り返ると
当時の私は

自分の生をこの世に繋ぎとめておくだけで精一杯だった
死にたい気持ちを抱えながら
死なずにいるだけで精一杯だった

のです。

生きることに精一杯だったのではない
死なずにいるだけで精一杯だったのだ

そう気づいてなぜか心がふっと軽くなりました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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