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投稿し続ける理由

どうも!
不登校サバイバー
Welbeの平田真己です。

今日も昨日に引き続き
こういう投稿を続ける理由を書いていきます。

正直なところ、開始1ヶ月でネタは尽きている。
ネタが尽きてからは、記憶の水面にフッと浮かび上がってきたものを捕まえたり、記憶の掃き溜めを引っ掻き回したりして、なんとか書き続けている。

最近、誰のために書いているのかさっぱりわからなくなってしまった。
最初は、自分より上の世代に向けて書いていた気がする。あのころはまだ、まとまりのある何らかの(多くの場合良い)意味付けがなされた記憶を提示していた。

例えるなら、それは、押し入れから引っ張り出してホコリを払い、シワを伸ばしてラミネート保護した記憶である。

ネタが尽きたというのは、つまり、ラミネート加工した記憶を出し尽くしたということだ。

いまは、引っ張り出した記憶をそのままの状態で提示している。

押し入れというよりも、記憶の沼の中に手を突っ込んで引っかかったものをどうにか引っ張り上げている、といったほうが実感に近いかもしれない。

それは、一度ゴミ袋に入れたゴミを取り出すのにも似ている。そのゴミは、腐ってドロドロになって腐敗臭を放ち、もはや原型が何だったのかわからなくなったような、そんなものたちだ。

こんなものを出して
いったい誰のためになるのだろう

そう思いながら毎日毎日吐き出し続けている。
もはや誰かのために書いているのではない。
自分のために書いているのだ、と思う。

しかもやりたいかやりたくないかでいったら
断然やりたくないのである。
何が楽しくてわざわざ見たくなくて閉じ込めた記憶を引っ張り出しているのだろう。
見なければ傷つかなくて済むのに。

この投稿は自傷行為だ。

読者は毎日、リストカットした腕を見せつけてられているのである。
読んでいていい気になるはずがない。

傷を見せびらかしている自覚はある。
本来なら自分一人でやるべき作業なのだろう、とも思う。

自分のために、しかも、やりたくないことをしている

その表面自体が読者を裏切ることなのかもしれない。

でも、私はそうすることでしか自分を表現できない。
それが私なのだ。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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