非対称
どうも!
不登校サバイバー
Welbeの平田真己です。
今日は
親子のコミュニケーションの非対称性について
書いていこうと思います。
不登校のことや進路について
母と話していて核心に迫ったとき
母は口ごもり、何かを言いかけて、
結局口をつぐみ、決まって
「親にならないとわからない」
という。
私が一番知りたいのはその部分なのだが
それまでに何度も母の琴線に触れて
母の心を掻き乱しているのも
母がこれ以上追及されることに拒否反応を示しているとこもわかっているので
それ以上は踏み込まない。
また対話を拒否されたな、という気持ちが残るだけである。
感情的になりながらも母との対話を重ねるうちに、断片的にではあるが母が自分の過去を語るようになった。
そういうやりとりを繰り返して気づいたのは、「自分の過去」にまつわる親子間での明らかな非対称性であった。
母は私を、生まれたときからずっと見ている。
母は私の人生の目撃者である。
私の人生における大きな出来事をともに経験している。
そのとき私が何を感じ、何を思い、何を考えたかまではわからないにしても、私に何が起こったのかは知っている。
母と私は”私の過去”を共有している。
つまり、母は私の過去をある程度包括的に把握している、ということだ。
対して私はどうだろう。
私は母の過去を知らない。
母より後に生まれたのだから当然だ。
ただ、母の過去を全く知らないわけではない。
母はそれを、断片的にではあるが語っている。
しかしそれは断片にすぎない。
母が語りたくないことは語られない。
いくら私が知ろうとしても
そこに触れることはできない。
母の私に対する言動には母の過去が反映されているはずだ。
母の過去の経験を踏まえて
「私のために」
いろいろ言ったりやったりしているのだろう。
それが私にとってどんなに理不尽なことであったとしても。
どういう経緯で母のその言葉や行動が生まれているのか、私は私の知りうる範囲の”母”からしか推察できない。
それは母が語らない”過去”から導き出されたものかもしれないが、背景を知り得ない私にはその結果しか見えない。
それはまるでAlphaGoのようだ。
最適解は見せてくれるけれど
その解を導き出すプロセスは闇に包まれている。
「私のため」という母の言動の数々。
それは母の出した”最適解”である。
それが私にとっても”最適解”であるとは限らないのだが。
母の出した”最適解”に納得できないとき
私はなぜそれが”最適”なのかと母に問う。
最初、母は
それが世間一般に言われていることだ
と応える。
私は納得できない。
そしてさらに問う。
母は自分の経験を語り始める。
核心的な部分を避けるようにして。
それでも私は納得できない。
さらに問う。
母は言い淀む。
何か言おうとする。
言葉は喉元まで出かかっている。
が、逡巡し、その言葉を飲み込む。
そして諦めたように言う。
「あなたにはわからない」
と
私は納得できないが
それ以上踏み込むこともできない。
母が引いたその一線は
踏み越えてはならない一線なのだ。
そして対話は途切れる。
母の言動は
私にとって
理不尽であり続ける。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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