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【障害】を綺麗事で片づけてくれるな

こんにちは!まこです。

前回「【障害は個性】なんかじゃない」というやや反感を買いそうな記事を書きました(良ければ以下からご一読ください)。

今回はその続編を書いていきたいと思います。

ちなみに、ほんとにちなみにですが、記事の写真は幼き頃の僕です。
・・・かわいいでしょ?(´へωへ`*)黙
前回は顔しか入らなかったので、今回は身体をメインにして投稿します。

あ、両腕がないのは決して合成写真ではありませんよ!笑
僕の場合は先天性による欠損です!

1.乙武さんいわく「個性はプラスの意味」

それでは改めて書いていきます。
今回はまず乙武さんのお話の引用から。
(なお、当記事では僕がまるで乙武さん信者なのではないかというくらい同調していますが、決して信者ではありませんのであらかじめご承知おきください)

ちなみにですが(どんだけちなむねん)、僕はどうしても乙武さんとよく比較されてしまいます。

まぁ確かに、乙武さんはある種「両腕欠損界のパイオニア」的な存在ですからね…仕方ないと言えば仕方ないのかもしれません。
ただ僕にはポンコツながらも足は一応あるわけで、その点では乙武さんの苦労に遠く及ばないのです。

・・・ってあかんあかん、話が長くなりそうなのでこのお話はまた後日することにします。笑


それでは話を戻しまして。
以下、以前僕がたまたま見つけた記事です。

上記サイトで乙武さんは対談形式でお話をされていますが、読んでいて納得できる部分がたくさんありました。

まず「個性」の定義について。
乙武さんは個性について
「日本で個性という言葉はプラスの意味で使われることが多い」
とおっしゃっています。

確かに、この国では「個性」という言葉をマイナスの意味で使用することはほとんどありません

まれに人の悪い部分を「個性的」と呼ぶこともありますが、それはその人の悪い部分をそのまま「あの人は〇〇なところが良くない」とストレートに言うことを避けるために、「あの人って〇〇で個性的だよね」と婉曲して、あるいは若干の「皮肉」を込めて使っていることが多いように思います。

あとは、例えば「個性を生かす」という言葉がありますよね。
でも反対の「個性を殺す」という言葉はあまり聞いたことがありません。

これらから考えてみても、やっぱり「個性=プラスの意味を持つ言葉」という認識は間違っていないのではないかと思います。

2.乙武さんいわく「障害は特徴」

上で述べたように「個性=プラスの意味」と捉えると、「障害=個性」という考え方はやっぱり何か違う気がしてなりません。

実際に乙武さんも

日本で「個性」という言葉は、「個性があって魅力的だね」というふうにプラスの意味で使われることが多いですよね。となると、じゃあ、障害が果たしてそのままでも魅力的であり、自ら身に付けたいと思うものかと考えた時、やっぱり望んで障害を持ちたいという人はいないと思うんです。それなのに、あえてプラスのこととして語られることの多い「個性」という言葉を使うというのは、僕としては無理をして強がっているような気がしてならないんです。

とおっしゃっています。

このお話、僕にとってはぐぅの音も出ないほどド正論です。

僕自身も、前回の「【障害は個性】なんかじゃない」という記事(上部リンク参照)で触れましたが、自ら望んで「障害者になりたい!」って言う人なんてまずいませんよ。

いたとしたらそれはもう気が狂ってます。笑
あるいは障害を舐めているかのどちらかです。

いずれにせよ、障害なんてない方が良いに決まってると僕は思っています。
「障害があって良かった」なんてほんとに強がりです。

確かに「障害」が人と異なる部分を指していることは事実です。
でもそれをあえて「個性」と呼ぶ必要はない。

乙武さんの言うように「特徴」なり、あるいは単に「人と異なっている点」なりと、何とでも呼びようがあるはずです。
(個人的には「特徴」も何か違う気がしますが…)

それを「個性」と呼び、無理やりにでも障害を肯定的に捉えようとする風潮がどうも気持ち悪くてなりません。

と言うのも、形式にこだわって障害を捉えようとすると、障害に対する根本的な問題意識が薄れてしまうのではないかと感じているからです。

つまり、障害を「美化」してしまうと、あるいは「綺麗事」として片づけてしまうと、かえって障害の本質から目を背けてしまうことになり、解決されるべき問題が見過ごされてしまうのではないかと思うんですよね。

結局何が言いたいのかって、
「何でもかんでも良いように捉えようとしたらあかん」
ということです。

3.「サイコパス」も個性なの?

例としては良くないかもしれませんが、例えばの話。

「障害は個性だ」と考える人は、
「サイコパスも個性」
だと考えるのでしょうか?

極論で話をしていますが、話の筋道からは逸れていません。

「人と違うことが個性」であると仮定し、その考えに基づいて「障害も個性」という捉え方をするのであれば、サイコパスだって立派な個性になってしまいますよ。
だって明らかに「普通じゃない」んだから。

でもそんなわけないですよね。
「サイコパスの人って個性的!」だなんて思う方も正直どうかしちゃってますし、これは認められちゃダメなはず。

さらにこれまた極論かもしれませんが、連続殺人鬼や無差別殺人鬼などといった、人の命でさえ平気で奪ってしまうような人間。

普通ならあり得ないというか、誰もそんなことしようとしない。
でもそんなことが平気でできてしまう、明らかに特殊な人間

そんな人間のそんな性質でさえも「個性」になってしまうんですか?

大罪を犯したにもかかわらず「精神の異常」を理由に無罪になってしまうケースも多々ありますよね。
そんな「精神の異常」でさえも「個性」になるんですか?


普通じゃないこと、人と違うことが個性だと一様に言ってしまうと、上記のような例でさえ個性になりかねないんです。

僕個人の考え方としては、「障害は個性」という考え方はこのように考えるのと同じくらい「普通じゃない考え方」にしか思えないんです。

4.障害は自分だけのものじゃない

これまでは「人の障害を個性と呼ぶことに違和感を覚える」というテーマで話を進めてきましたが、
「障害者本人が自らの障害を個性だと主張する」
のも僕からすれば聞いていてあまり好ましいものではありません。
(これも前回の記事内「【障害は個性】なんかじゃない」で触れています)

もちろん、本人が心の中でそう考える分に関しては何も言えませんが。

百歩譲って、僕が「あなたは個性的な人だ」と言われるのは構いません。
もう慣れました。

ただ、その「個性」とやらのために、家族(特に母親)がこれまでどれだけ大変な思いをしてきたか。

障害って「障害当事者」だけの問題ではないんです。これは絶対です。

だからこそ、こうした当事者の周りの人のことも考えると、「障害は個性だ」なんてうかつに言うべきことではないと思うんです。

それはたとえ「自分が当事者」であってもだと思います。

本人は「障害があって良かった」と思うこともあるかもしれません。
そう思えるのはある意味幸せなこと、強みであるかもしれません。

ですがきっと、その障害は自分だけのものではないはずです。
本人がそう思えるようになるまで、周りの方がどれだけ大変な思いをしてきたか。
家族がどれだけ我が身を削って障害のあるあなたを支えてきたのか。

人間って不思議なもので、自分自身の苦しみや苦労にはある程度耐えられる生き物だと思います。

実際に僕自身も、これまで確かに色んな経験をしてきましたが、今では
「どれも大したことなかったな( ̄▽ ̄)フッ」
と思えることばかりです(決して強がりではなく)。

ですが、その苦労は自分と同時に、家族や周りの支援者の方々も経験しているわけです。

たとえ自分自身が良くても、自分を応援してくれる、自分を支えてくれる大事な人たちに、僕なら極力つらい思いをさせたくありません。

もし生まれ変わるとしたら、自分の障害のことで大切な人を悩ませるなんてもう絶対に、絶対にさせたくありません。

たとえ周りの方が自分につらい面を見せなくても、きっと家族や友人、恋人、先生方などは不安でいっぱいだったと思います。
そんな不安のなか、精一杯自分を信じて支えてきてくれたわけです。

だからこそ、僕なら
「障害があってよかった」
「また(障害のある)自分に生まれたい」
なんて絶対に思わないし言えないんです。

大切な人たちのことを考えると、そんな自分のことしか考えていないような発言は口が裂けても言えません。

僕はもし生まれ変わらないといけないなら、今度は自分が大切な人たちを支える側になりたい。
強く、強くそう思います。

だからこそ、障害当事者が
「障害は自分の個性です!」
などと言っているのを見るとすごく嫌な気分になるんです。

「周りのことをしっかり考えた上でそのような発言をしているのかな?」
と疑問を抱かずにはいられないんです。

「この一言で周りの誰かが傷つくかもしれない」
障害者本人ほど、常にその考えは持っておくべきだと僕は思います。

5.ネガティブをポジティブの源に

ちょっとネガティブに書きすぎですかね?笑

が、やっぱり僕の想いは変わりません。

「障害は個性」ではないです。

何かをする上で自らの妨げとなるもの、それが障害です。
普通だったらできるはずのことができない、あるいは人の何倍も苦労しないとできない、そういったネガティブな性質が障害です。

それが「障害」という言葉が本来持っている意味のはずです。

僕はなにも「障害は個性だ」と美化して言わなくても、綺麗事として捉えなくても、本来のあり方、考え方で捉えれば良いじゃないかと思うんです。

だって、障害自体はネガティブなものであったとしても、障害当事者がネガティブな存在であるという考え方には直結しないじゃないですか。

上でも述べたように、障害があって初めて得られることだってたくさんあります。
ネガティブ要素からポジティブ要素が生まれることなんていくらでもあると僕は思うんです。

ネガティブなものをネガティブなままにしておかない。
ポジティブなものを生み出す根源にする。大事なのはここなんです。

だからこそ、障害を綺麗事にするんじゃなくて、障害自体は――障害そのものは「悪いものは悪い」と捉えるある種の勇気が大事なんだと思います。

美化すること、綺麗事からは有益なものなんて何も生まれません。
生まれるのは空虚なものしかないはずです。

現実から目を背けず、きちんと向き合うことで、問題を克服するきっかけが得られるのだと思います。

6.最後に

最近ではなにも障害に限らず、美化されたものや綺麗事がそこら中にはびこっていると感じます。
「物事を考える、捉える」という点で大事なものが現代には欠けている気がしてなりません。

世の中綺麗事だけでは回りません。
いかに汚い部分を、苦しい部分を直視して打開策を講じていくかが重要なはずです。
「腫れ物に触る」ことが大事なんです。

その中でも、前回と今回の2回にわたり、「障害当事者」としてどうしても物申したいテーマについて徒然と書きました。

もちろん色んな考え方があると思います。
僕の考え方はおかしいと思われる方もたくさんいらっしゃるでしょう。
でも、言葉に惑わされるのではなく、
「現実を直視すること」
「軽はずみに言う前に考え直してみること」
は絶対に必要なこと
だと思います。

「障害は個性だ」

この言葉を使う前に、本質を改めて見つめ直してみませんか?

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