見出し画像

空気読む、読まない問題


「そうなのよ。だから空気を読めっていうのよ!」
と、私の隣で知り合いのママが別のママたちと熱く語り合っていた。
「これだけやってあげているのにさ。ちっともわかっていないのよ、あの人は……」
「ほんと! そうよねぇ〜」
どうやら気に入らない人がいるらしく、その人について何人かで愚痴をこぼしているのだった。

私はその輪には入らず、他の人たちと喋っていたのだけれど、「空気を読め!」という言葉が棘のように私の肩に突き刺さっていて、気になってそれまでの会話に集中できなくなってしまった。


「空気を読まない」ということが罪になっている……と暗い気持ちになった。その標的になっているママが、生まれつき空気を読むのが苦手な人だったらどうするんだろう……。いや、苦手だからこそ叩かれているのだろうけど……。

わかっているのだろうか。
「空気を読めない」人も、この世の中にはいるのだ。
走るのが苦手な人、歩けない人、歌うのが苦手な人、手が不自由な人、計算が不得意な人。そういう人たちに対しては、世の中は優しい。女性たちは、あそこまでバッシングはしないし、するどころか時には手を貸してあげたりする。
しかし、こと「空気が読めない人」に対して、多くの女性は情け容赦ない感じがする。
でも実際に、空気を読めない人や、空気を読むことが苦手な人はたくさんいるのだ。足が不自由な人がいるように、心臓が右についている人がいるように、空気が読めない人も生まれつき存在するのだ(親子コミュニケーションの不全などで、後天的に読めない人もいるが)。

確かに、とりわけ女の世界は「空気を読むのがすべて」ぐらいの勢いでぐるぐる回っている。男の世界とは桁違いに、感度の高いセンサーが張り巡らされているように思われる。
空気を読んだうえで「同じ意見を共有」していることが、仲間入りの前提条件だ。
人間は他人とまったく同じ考えを持っているはずはないのだが、なぜだか「仲間同士は同意見」という幻想の中でコミュニティーを保っている。
歩けない人でも、空気が読めていればOK。計算できなくても、空気が読めていれば問題なし。でも、はなから「空気を読めない人」は、コミュニティーのチケットを失っているのだ。

「寛容さ」が足りないよね、と思う。
変わっている人がいればいるほど、世の中は面白くなるのに。
排除の意識が、どんどんと息苦しく、どんどんと自分たちの世の中もを生きづらくしている。

いろんな意見があっていいじゃないか。
隣に住む人がヒンズー教だったり、ムスリム教だったり、ゾロアスター教だったりしたら、面白いじゃないか。いろんな神様がいていいじゃないか。
なぜみんな同じ意見、同じ空気じゃなくてはいけなのだ。
宗教戦争と同じように、冒頭のママは自分のコミュニティーが正しく、あとは邪教なのである。あの怒りは自分の考えが常識であり、絶対に正しいという驕りであるし、協調性に不自由な人への差別なのである。
車椅子の人に手を貸してあげるように、欠けているところは手を貸してあげるような優しさがないと、世の中はうまく回らないのになぁ、と思う


そういう私は、幼少の頃から「空気が多少は読める」という微妙なラインで生きてきているように思う。思いっきり「読む」でもないし、さりとてあえて「読みたい」とも思わない感じ。

ちなみに先日、軽い気持ちで入力してみたインターネット生年月日占いの結果が、私の生き様を言い当てているようでびっくりした。
「変わった考え方をするものの、あなたは親分肌で面倒見がいい人。まわりは『ちょっとついていけない』ということがあっても、結局は世話になってしまっています。…人間はいくら変わった発想の人がいても、自分に関係なければ寛容に見てくれます。」
と、自分が女子コミュニティーのチケットを失っている様子が如実に語られていた。しかも親分肌で何かと便利だということで、仕方なく周囲が付き合ってくれている感じが、妙にリアル。占いだけれど、されど占い。……軽く傷ついたけど、あながち、いやまったく否定できないのであった。
そう。だから「空気が読めない人」というのは、他人事ではないのだ。

みんな、ひとにやさしく、行こうよ。ね。


ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️