オウムと私。
地下鉄にサリンが撒かれた3月20日。
あの日の朝、私は祖父の会社のお使いで、小伝馬町(こでんまちょう)のとある会社に立ち寄る予定だった。そう。死者4人を出した、あの駅の。
当時の私は大学を卒業したばかりで、4月の初出社まで暇な日々を過ごしていたのだった。
しかし早朝から激しい頭痛がして歩ける気がしない。「小伝馬町は午後からでもいいよ」と、その会社で事務をしている母が言ってくれたので、それに甘えた(身内の会社でなかったら、私も歯を食いしばって電車に乗っていたと思う)。
そして頭痛薬を飲んでソファで休んでいたら、地下鉄テロ事件の速報が入ったのだ。驚愕だった。もし電車に乗っていたら……。
高校が霞ヶ関のそばだった妹も「(死んだ)お父さんが、学校行くなって止めてくれた!」と、泣きながらテレビを見ていた(なんでか彼女も学校を休んでいた)。
それはそれとして兎にも角にも、午後はなんとしてでも小伝馬町に行かなくてはならない。と思ったら、都内の地下鉄は全線ストップ。結局、私はお使いをすることができなくなった。
仕方なく、夕方ごろ私に代わって母がタクシーで小伝馬町に向かったのであったが、その取引先の従業員の方が1名お亡くなりになっていた。あの人かな……と、何回かお使いで顔を合わせていた人を思い出す。
(その翌月から勤めた会社は中目黒にあり、またもや使いっ走りで向かった先は目黒公証役場。つまりオウムの公証役場事務長拉致事件で殺された、仮谷さんの勤め先だった。「いい人だったのよぉ」と部長が言っていた……)
同じ事件の日の朝、看護師である私の友だちは、自宅のある中目黒駅の階段を昇っていた。
結果として彼女は、おととい死刑が執行された豊田亨がサリンを撒いた電車より、一つ前の電車に乗ることになったのだが、いつもは豊田が乗った電車で通勤していたのだった。
しかしなぜかその日に限って、発車ベルが鳴った途端に階段を駆け上がって前の電車に飛び乗ったのだそう。遅刻もしていないのに。私も、高校時代から常に計画的で冷静沈着な彼女を知っているが、今まで駅で走ったことなど、まずなかったそうだ。そしてその時、もしかすると豊田亨を追い越していたかもしれない。豊田は、中目黒から乗車したのだ。
幸運にもサリン電車に乗ることはなかった彼女だが、途中でテロのために電車は停止することとなり、歩いて勤務先の聖路加病院に行くことになった。
病院にたどり着くと「テロが起きたが、何が原因だかわからない。細菌兵器かもしれないし、毒ガスかもしれない。が、当院は患者を受け入れる」と、あの日野原院長が宣言し、防護服もないのに次々と重症患者が運びこまれた。その数700人以上。夜通しの、さながら野戦病院のようだったし、細菌だったらどうしよう、自分も二次感染したらどうしよう、と考えながら治療に奔走したそうだ。
幸いに聖路加病院は、患者にシャワーを浴びさせて着替えをしてから診察したので二次感染はなかったらしい。しかし他の除染をしなかった病院では、そのまま患者の衣類に付着しているサリンを吸った医療従事者たちが、サリン中毒の後遺症に悩んだと聞く。
そして、時は確実に流れたといえばいいのか。
先日(刑の執行後に)放映された『ザ!世界仰天ニュース』で、オウム真理教が扱われていたことに、こちとら仰天した。
この日の内容は「身近な爆発4連発! 電子レンジ、電子タバコ、ミキサーのフタ、あの瓶詰めが! 吹っ飛んだ!」や「黒人に憧れた白人女性が㊙︎注射で最強の大変身!」であり、それと「オウム真理教」が並列なのである。くらくらしたのは私だけであろうか。
いや、断じてこの番組を批判しているのではない。ちゃんと真面目にオウムを扱っていた。しかし、ただ単純に「肌感覚の違い」を感じた。ここの構成作家さんたちは、もしかすると平成生まれか、昭和末期生まれなのか……。もう戦争を知っている世代は少ないのう……と、空を仰ぐお年寄りと同じ心境なのである。
私にとってはオウムは切実な「社会問題」であり、ニュースの特番かNHK特集ものなのである。世界の「びっくりニュース」の一つとして、取り上げられたことに、少なからずショックを受けた。
それほど私にとってオウム事件は身近だったのだ。
私が生まれ育ったのが東京だったせいでもある。
高校時代には、一斉に信者たちが政界に出馬。「スッカー」だの「マルパ・ロサ」だの「マハー・ケイマ」だのと、カタカナのすっとんきょーな名前を掲げた人たちが怪しい衣装を着て恍惚の表情を浮かべているポスターが、街中に張り出された。ゾウの帽子をかぶっている人たちや麻原の被り物をしている大勢の人たちが、駅前で踊っていたりした。宣伝カーも通っていた。
そして、サリンが撒かれたあの年の前後は、周囲の人たちがふいに死んでいく感覚があった。実際にオウムに対抗していた、いろんな人たちが襲われたし、対抗していない人たちも無差別に襲われた。それはひょっとすると自分かもしれない感覚。一生続く後遺症で悩む人たち。怖くてしばらくは地下鉄も乗りたくなかったし、皇居や霞ヶ関といった都心には近づきたくなかった。
幹部の村井秀夫が刺殺された現場では、翌日だか翌々日だか、白い衣装を着た女性たちが舞をまっているのを仕事中の通りがかりに見た。あの頃の東京は明らかにおかしかった。
振り返るとオウムは私の多感な時期とモロかぶりであり、当時、高校〜大学生の私は、多感と言えども甘酸っぱいアオハルとはまったく無縁。キュンキュンしたい乙女心よりも、この世の中のことをわかりたい気持ちでいっぱいだった。
宇宙の摂理のことも、分子のことも、戦争のことも知りたいし、貧富の差についても謎だらけ。日本や海外の国々、人間の心理のことも把握したいと思っていて、日々とっちらかっている難儀な娘だった。
そして本と旅を相手に、一人で勝手に探求していたのだ。
とくに海外を旅すると、人間と宗教は切っても切れない関係に見える。時には戦争の火種にもなるほど、アツい。
無宗教な人が多いという日本人に疑問を抱き、そして自分自身もなんの信仰もないことが不思議で、信じるものがあるという人たちに会うとインタビューをしまくっていた。
その突撃!隣の晩ご飯ぶりは宗派を問わず、キリスト教や仏教、イスラム教、ユダヤ教をはじめとして、オウム、統一教会、真光だの、なんだか怪しい人たちにも手当たり次第取材を続けた。
女子校帰りに、ゾウの帽子をかぶっている人たちの元へ、自らパンフレットをもらいに行ったこともある(ちなみにオウムのパンフレットは荒唐無稽な画力の低いSF漫画で、「さぁ、一緒に超能力者になろう! そしてその超能力で、地球の危機を救うんだ!」という不思議な力を得るどころか、全身が脱力する幼さだった)。
逆取材で、ミイラ取りがミイラになりそうになったときもあった。ある新興宗教は、巧みに相手の弱点をついてくる。たくさん質問されたと思ったら、思春期で母とうまくいっていないことやトラウマを探られ、「あなたは母親に根本的には愛されていない」だとか言い出し、私の心を動揺させて、誘い込もうとしていた。
好奇心の強さが災いし、大学の「世界の貧困を考えるサークルの上映会」と称された先に誘われて行ったとき、そこはなんだかわからない謎の宗教だと知った。私の卒論のテーマだった世界の貧困を考える様子はさらさらなく、謎の議論をふっかけられてなかなか帰してもらえなかった(7時間に及ぶ討論ののちに解放してもらった。でも終始いい人たちだった(笑))。
そうなのだ、多くはいい人たちだったのだ。たとえ私を軟禁した大学サークルの彼らとて、接してみて痛感したのは、誰もがとても真面目でピュアだったこと。これが宗教をこじらせたおじさんやおばさん、長く在籍している信者だったら、また印象が違うのかもしれない。が、同世代の人たちの最初の動機はひたすら純粋だった。世界を知りたい、真理を知りたいという探究心と好奇心があった。どこか私と同じだった。
私は、オウムの殺人行為を決して肯定しない。馬鹿なことを、ひどいことを、決して許されないことをしたと思う。命を落とされた方々と後遺症に苦しむ方々、そしてそのご家族に心底、心を寄せたい。ご遺族や後遺症に苦しむ人たちの手記も、かなりたくさん読んだつもりだ。
だが、あれほどに不安定だった自分の思春期を思うとき、オウムに走った人たちを切なく思う。
なぜか結果としてサリンを撒いちゃったけど、最初は世界平和を願っていた人たち。良かれと思って、最悪なことをしてしまった人たち。真理を知りたいと願い、間違ったモノを盲信してしまった人たち。
今回死刑になったオウムの信者たちは、世界を放浪してみたり、大学院に進んで研究を深めていたような、まぁ、当時の私のような頭でっかちな人たちだった。この社会で生きていくのを簡単に割り切れていない不器用な人たちだった。中には学生時代に入信したので、社会経験がまったくない人たちもいる。社会経験があっても医者や研究者のような、世間知らずのタコ壺分野の人たちも。
だから未だにオウム事件は、私にとってまったく他人事に思えない。
もし私がもう少しうぶだったら、ピュアだったら、すれていなかったら。何かのきっかけで単なる自然現象を奇跡と見間違えてしまっていたら。あのまま弱点を突かれて、そこに付け入られてしまっていたら……。
そのヒリヒリとした青春の乾き具合に、身震いすら覚える。