AIとポジティブに生きる・その1(家庭編)
二匹いるうちの一匹の猫は、お腹が弱くてすぐゲロを吐くので、ルンバを買えない。私の留守中にルンバがゲロをワックスのように引き伸ばし、床一面に塗り広げてしまうからだ。
そしてきっと戦う! もう一匹のチビ猫、強気なメスのハナちゃんはルンバに果敢に挑むに違いない。あの跳ねっ返りはルンバごときに負ける気がしないので、それはそれで見ものなんだけれども。
ルンバと言えばはるか昔、昭和時代に掃除機が、冷蔵庫が、洗濯機が登場する前は、割と貧しい家ですら女中がいたそうだ。嫁、姑がいてプラス女中。それぐらいの手数が必要だったのだね、昔の家事は。そして家電がどんどんと仕事のあり方を変えていった。
これから先も洗濯物を洗って乾かしてさらに畳むだとか、料理を作ってお片づけをしてくれるだとか、すごいロボットがどんどんと家庭内に進出するらしい。自動で浴槽を掃除するお風呂もあったな。まだまだお高くて買えませんけどね。家電界はなんだかすごいことになってくる。『ドラえもん』のセワシ君(のび太の孫の孫)の家ようなフルオートメーション化の時代がすぐそこにあるのかもしれない。
それらを各家庭が選択するか否かは別として、どんどんとルーティンはロボットに置き換えられていくのだろう。ほぼ誰の家にも洗濯機があるように、だんだんと世間に認知されていくのだ。
女中のように他人が家庭内に入ると、あの宝石が見当たらないんだけどあの子かしらだの、やれ旦那に色目を使ってムカつくだの、やれ家政婦は見ただの、いろいろとトラブルの元になっただろうが、ロボットだとそういった厄介事がないのがいい(我が家の場合、猫村さんは歓迎する)。
さて、かなり前のことだがルンバが出たてのころ、テレビでまだ独身だった眞鍋かをりが「留守中はルンバに掃除をしてもらってる」と言ったら、MCの小倉智昭が苦笑しながら軽い侮蔑の眼差しを送った。
そのとき、私の心には小倉の声がしかと響いた、確かに聞いた。「オイオイ。しょうがないね、今のお嬢さんは」と。オイオイはこっちだ。そういうおまえは当然家事をきちんとやって家をその手で掃き清めてから『特ダネ』に出てるんだろうな、と勝手な幻聴に勝手にイチャモンをつけたものだった。
ルンバにしかり、どの時代も導入期はそのような抵抗に遭うんだろうなぁと思う。
かくいう私も十数年前、乾燥機付きの洗濯機を買ってもらうのに軽く罪悪感を抱いたものだ。干すだけの手間を惜しむ自分ってなんだろうと。しかし、干すだけの時間もなかったのだ、当時は。
年子の男子二人を育てていた私は、ひどく家電に助けてもらったのを覚えている。乾燥機も食洗機も大いに寿命を伸ばしてくれた。もう命の恩人だよね。
何と言っても幼児二人。それも男子。例えるならば元気な二頭の威勢のいいポニーが狭い家の中を闊歩して、片付けた部屋も次から次へと一瞬で踏み荒らしていく感じ。そしてローマ皇帝のような無理難題を要求(ローマ皇帝、よく知らんが)。右と話せば左が泣くし、左と話せば右が怒る。右が走れば左も走る。洗濯物を蹴散らし、食べものを撒き散らす。子どもが起きているときは家事がほとんどできないし、寝てから頑張ろうと誓うが、子どもを寝かしつけながら疲れ果てて寝落ちしてしまう日々。
そんなときでさえハイテク家電の導入にチクリと罪悪感を持ったのは、家事をどこかで神聖化してきた節があるからではないかと思う。私もどこかで小倉化していたのだ。
確かに完璧に家事をし終えると気持ちがいい。でも神聖化とはそういうことじゃなくて、おそらく家事に対して「いつも黙々と家事をこなしていたお母さんの背中」という、美化された古き良き面影があったのではないか。お母さんのイメージにさらに付け加えるのなら、お寺のお坊さんたちが履き清めたり、精進料理を作ったりして毎日お勤めをする清々しい姿も拍車をかけているのかもしれない。
もちろん好きで余裕があるのならば、自分の手で掃除して、洗濯したい人はすればいいのだ。掃除機よりも箒、雑巾で。炊飯器より土鍋が美味しい。電子レンジより蒸し器がいい。それぞれ思い思いに、手間をかければいい。
私も今のところロボットに料理を作ってもらう気はさらさらない。たまには自分で心を込めて床を磨きたくなる(かもしれない)。でも年老いてきたり、病気になったらわからないし、仕事が超忙しくなったら、わからない。
だいたい、ソロバンをやめて電卓に変わったとき、ガリ版をやめてワープロが、コピー機が現れたとき、社会は罪悪感を持っただろうか? 会社や工場内のロボット化は時短だの効率化だイノベーションだのといって歓迎され、家庭内では怠惰だとされるのはどういうことか、と問いたい。
ロボットや女中が家庭に入ってくれることで、余裕を持って子育てできたり、余裕を持って仕事をしたり、自分のインプット(学習)の時間やアウトプットの機会を増やしたり、家族と団欒をしたり、趣味に傾倒できるのだとしたら、それは人間が本来望んでいることではないのだろうか。
日本語の「過労死(KAROSI)」が英語になるほど日本人は働いているのだ。もはや労働を美化している場合ではない。行政がどうにかしてくれないのなら、こちらもこちらで効率化を進めてストレスを減らす努力をしなければならない。
そもそもワンオペ家事だのワンオペ育児だのというブラックな単語が生まれるぐらい、家事と子育て、あるいは家事と就労は一人きりで賄える量ではないのだ。昔は嫁、姑、さらに女中に子守。女手が何人もいて家事は成立していたのだ。寺だって小坊主さんが何人もいた。
核家族で、男も女も一億総活躍しなきゃならない大変な時代。家電は、いやロボットはさらに助けになってくれるに違いない。
エコで省エネな暮らしも、きちんとした手をかける暮らしも実際はとても憧れるのだが、まず己のハッピーを軸に生きていきたい。家事や仕事で疲弊しないように、まずは楽しく幸せを感じることを第一優先にしたい。
自分の手で掃き清めた床が、美味しい土鍋が己をハッピーにしてくれるのなら、それはそれを選択すればいい。ロボットが生み出してくれるゆとりの時間が己をハッピーにしてくれるのなら、それはそれを選択すればいい。
毎年年末になると思うのだが、昔は年賀状の裏と表をいちいち手書きで書いていたんだもんね。祖母は三百枚以上をも送っていたのを覚えている。しかもなんだか長文を書いていた。私は今さらオール手書きの年賀状には戻れない。昨今は年賀状でさえ出すのに疑問を抱き始めている、SNS時代。イノベーションは着々と進む。
おせち作って、大掃除して、年賀状三百枚……。ほんの数十年前の師走は、師どころかポニーが走り回る忙しさよ、忙殺よ。今から思えばね。