親友ってなんだ?
おかっぱ頭の小学生の頃、私の研究テーマの一つは、
「『親友』ってなんなんだ?」ということだった。
小学3年生の新学期、新しくクラスメートになった子の家に遊びに行ったことがある。
藪から棒に「私のこと、これからは『みるくちゃん』って呼んで」という無茶な要求をしてくる女の子だった。いえいえ、あなたはキヨミちゃん。
教室で「みるくちゃん」なんて発すると、声に出した私そのものが浮くってことを察してほしい。絶対に呼ばない……と心に思いながら、彼女の家についていく。
彼女の家は大きかった。なぜだかお風呂の横についているサウナとその使い方を紹介してもらってから、その後通されたお部屋は、ザ・女子の憧れのような可愛いピンクのベッドのある個室だったのを覚えている。
リビングで彼女の母親に会った瞬間、自称みるくちゃんは私の腕を掴んでこう言った。
「ママ。私の親友のマコちゃん!」
いやいやいやいや。と、心の中で激しく拒絶。
親友じゃ、ない。
そのころをきっかけにだと思うのだが、私の親友についての考察は始まった。
当時の愛読書『りぼん』も友だちと交換して読んでいた『なかよし』も、主人公の傍らには必ずと言っていいほど「親友」がいる。アニメを見ても磯野君には中島君がいるし、ちびまる子ちゃんにはたまちゃんがいた。のび太は……ドラえもんがいるじゃないか。こうなったら名犬ジョリーだのパトラッシュだの、もう犬畜生でもアライグマでもいい。相棒がいるって素敵じゃないか。
しかし、手っ取り早くそこらへんで作れないのが、私の不器用なところ。白馬の王子を探すようになんとなくぼんやりと「親友」を待った。が、本来群れることの苦手な私は、そもそも特定の親友どころか特定のグループさえ作れなかった。
『りぼん』の学園モノの主人公と同じように、学校生活を送っている自分には親友がいてもいいはずなのになぁ……。
でも、そもそも「親友」って何だ?
小学校5、6年のクラスに上がると、いつも一緒に行動している2人の女の子がいた。振り返ればいつも一緒。どこでも一緒。休み時間も放課後も一緒。学校は2学年ごとにクラス替えがあるから、彼女たちは2年間常に共にいて、私の目から見ても可愛らしく微笑ましかった。
そうそう。ああいうのが「親友」って言うんだよね。なんでもわかりあえて、助け合って、いつもそばにいてくれる……。
しかし中学になってスクールカースト的なものが鈍い私の目にもはっきり見えてきた頃、2人が再び一緒にいる姿は二度と確認できなかった。そもそも2人ともクラスが違ってしまったのもあるが、それよりもお互い違うカーストに染まっていった。
あれ? 「親友」ってなんだ? と再び問い返す。
結局、大人になってようやくわかったが、「親友」だろうが「友だち」だろうが「知り合い」だろうが「仲間」だろうが、名称はどうでもいいことが理解できた。
あくまでも定義であって、そのくくりは極めて曖昧。
特に「親友」という言葉は、その中でも曲者だと思った。
要するに、友だち界の中でナンバーワンの地位を保証しあう言葉だ。
みるくちゃんが、周囲に(と言ってもママにだが)宣言をして地固めをしようとしていたように、「親友」という言葉を使い合うことで、まるで契約を更新し合っているかのように思える。要するに指差し相互確認だ。
「私たちって付き合ってるよね」といって、「恋人」という地位を確かめ合うような感じ。
そして友情ですら一過性であるということに、歳を経て理解した。
男性もそうであろうが、とりわけ女性は共感性が高い生き物なので、同じ環境内で強い絆が生まれやすい。共通言語を使い、理解し相談し合える状態で、似たような境遇。
同じ学校、同じ部活、同じクラス、同じ職場に始まり、親となってからは子どもが同じ小学校、子どもが同じ習い事……そんな環境が絆を深める傾向が強い。
そういうとき、仲間でも友だちでも定義はなんでもいいのだが、強い友情を感じられるのだ。
しかし、その環境から抜け出てしまうと、もう波長がすぐにずれる。ともすると、以前とはまったく違う人種に見えるほどだ。
では、そこから脱したら、もう友情はないのか。……どうなんだろう。私からすると、現役の「友だち」や「仲間」というよりかは、昔の「戦友」と言った感が強い。
かつて一緒に人生を支え合った友。たまに会って昔語りをして、今、どんなに境遇が変わったかを噛み締めて、お互いまた再び会えることを願う存在。下手をするともう会うことはないかもしれない、愛すべき存在。
でもそれは寂しいことではないと思う。
すべては流れゆくままに過ぎていくものであり、そのときそのときで人は助け合って、支え合っていくのだから。
時たま「ずっと一緒の友だち」という人たちもいるが、それはたまたま環境や条件が長期間整っただけで、結果論だ。長生きがすべてではないように、時間の長さが友情のすべてではない。
友だちと同じ流れを進んでいるとき、その合流期間がどれだけその長いか短いかは、河川の地形次第、時の運である。せめてその間だけは相手を大切に、そして優しく、楽しいひとときを過ごしたい。
そういうものなのだと思う。