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愛は天下の回りもの。半返しに問う


半返しという文化は、もうやめたらどうかと思う。
ありがとう! だけじゃ、ダメ?

昔、ママ友が急死したことがあった。脳梗塞でだ。その日から、残された子どもたちをパパが男手一つで育てることになった。
私は「パパの体調が悪いので、私の仕事量を増やしたんだ」という話を、その亡きママから直前に聞いていたので、足しにはならないが邪魔にもならないでしょうと、大泣きしながら香典を用意していた。これから子どもを預けて働くにも、パパ、お金がいるでしょうと。
しかし幼稚園サイドから、なんと「お返しが大変になるから『お香典は禁止』」と言い渡されたのだった。
「ちくしょう。お返しなんて、一文もいらねーーよ!!」
と、幼稚園の玄関で下駄箱でもひっくり返して泣いて暴れようかと思った。しかし、幼稚園サイドも昔あった事例を考慮して遺族側に立った判断なのだろう。幼稚園ママが二百人近くも押し寄せたら、お返しも大変なのだろう。わかる。わかるけどもさ!
結局、名前を書かないで、お花だけ持って行ったのを覚えている。鼠小僧のように、深夜に投げ銭でもすればよかったのか。

つくづく、お返しって何だろうと考える。
とくに、病気や死亡、地震や火事などといった不祝儀については、本当に返礼はいらないんだけれども。

昔、東日本大震災で被災した仮設住宅に、幼稚園のサークル名義で贈り物をしたら、ある家庭からかなり立派なお菓子が返ってきたので、「大変なときなのに、かえって悪かったかな」と思ったことがある。恩に厚い東北の方だし、こういうときでも本当にきちんとしていて立派だな、とも思ったが。「でもねぇ、家も流されているときぐらいは、甘えてもいいよ」と言ってやりたかった。

そこで提案があるのだ。
人の厚意を受け取ったらその人に直接返すんじゃなくて、今度は自分の周りの不幸があった人に恩返しをすればいいのではないか。できる範囲で。そうすれば世の中まわりまわって、もっとよくなるんじゃないのか。親切の輪が広がるというものではないのか。

もらった人にきっちり、半分返すっていう儀式、なんだそれって思うときがある。
たとえば、香典袋に「入れた額」と「名前と住所」を書く行為って、なんだか返礼を催促しているようで、いつも気まずいのは私だけであろうか。もちろん、書かなかったら親族にかえって迷惑をかけるから、そういう欄があるんでしょう。欄があるからこそ、むしろお互い気が楽ということでもあるんでしょう。いろいろ利便性があるから、暗黙のルールがあるのでしょう。
私の葬式には、なんならお賽銭箱のように投げ込み式で、無記名、額面はご好意の額でっていうのがいいのだけれど、ダメなんですかね。ちゃんと葬式代は用意しとくからさ。そしてもし、さい銭箱を開けたらスッカラカンでも、いい。もう私、死んでるから傷つかないし!

以前、遠い親戚に入学祝いを送ったら、なんだかすごいお返しの品が届いてびっくりしたのを覚えている。不意をついたのは、入学祝いというものは、その子どもに贈るわけで親に贈るわけではないから半返しは不要と、人から聞いていたからだ。でも常識というものは、所変われば品変わる。きちんとしてるところは、きちんとしている。
その子どものなにか成長に役立つものを買ってもらえばいい、という愛と希望を込めて贈ったのだが、半返し? いや、半返し以上を感じるすごい品だった。なんだか、あげたお金が生きた気がしなくて、心がしんとしてしまったよ。
たとえば五千円あげたとしたら、二千五百円戻ってくる。結局、自分は二千五百円あげたことになるのか? よくわからない。じゃあ、五千円ぐらいあげたいときは、一万円をあげればいいのか? そうじゃないだろう。
というよりも、それよりも以前に、うちの子どもがその遠い親戚から入学祝いをいただいたときは、「ありがとう。◯◯をかいました。がっこう、がんばります」という子どもの拙いメーッセージカードと、私からわりと丁寧な礼状を送っただけなので、
「無礼者! 礼儀とはこういうものじゃ! そーれ、半返し!」
と、喝を入れられた感じがしたものです。
これには「はい、すみません!」としか応えようがない。

またある日、子どものお友だちが忘れた人形を、なにかのついでに届けたら、後日、たいそうなお返しをいただいた。これでは反対に、子どもがこのお友だちの家になにか忘れたときも、ある程度のものを返さなくてはならないのだろうか。忘れ物をしづらいなぁ、とも思う。
お金が惜しいんじゃなくて、ありがとうの気持ちを金額で換算することに。そしてその都度どこかの店に走らなければならないことに単純に疲れる。だからと言って、買い置きしているのもなんか変でしょう?
話はそれるが、うちのボーズどもが何かしでかしたときには、菓子折り持って謝りにいったよなぁ。あの菓子折りって、なんじゃろう。こちらから勝手に渡しといて、なんなんですけど。
本当はまっさきに謝りに行かなきゃいけないんだけど、それよりも先にお菓子屋さんに走る自分を不思議に思ったものだ。

それはさておき、ある私の子どものコミュニティでは、もうやってあげることも、やってもらうことも、すべて自由。やりたい人がやる。やれない人、やりたくない人は、やらない。というのが一貫していて、とても過ごしやすい。
何かをお金で返すこともないし、必ず一品をもってお返しすることも基本的にない。でも気がつけば、誰かがうちの子を可愛がってくれているし、私も誰かの子をついでに可愛がっていたりする。他の子を食べさせるときもあるし、ご馳走になっているときもある。忙しくてあまり手をかけられないのならば、自分の家の子と一緒に手をかけるし、それに対してお互い負の感情を持たずに、自分が役立ちそうなところでは、無理のない範囲で頑張る、というのがいい。
そして、飛び交うのは常に感謝の声。そう、お返しって「声」だけでいいのだ。

いやいや。みなさんの反論も、よくわかります。地域性もあるし、そうはいってもお付き合いは大事なのも。私も、親とか身内の葬儀では半返ししたし、結婚や出産のご祝儀も半分返した。これからもするんでしょう。
そして受け取った側の「来てくれてありがとう。気にしてくれてありがとう」っていう気持ちも、よくわかる。たとえ半返しで半額になろうとも、いただいたお金で立派な結婚式や葬式が挙げられる、そのお礼というのもわかる。
きっと、いちいち、いろいろと悩まないために「はい、半分返す!」というルールがあるんでしょう。聞けば、半返しは日本独特の文化らしいから(探せば地球のどっかにあるかもしれないけれど)、ムラ社会が作り出した、摩擦を最小限に減らすためのルールなんでしょうね。

しかし、感謝の気持ちがストレートに感じられるときは、清々しく受け取れるんだけれども。
覚えはないだろうか。何だか同じだけのエネルギーを、少しも漏らさずきっちり返そうという、そこに相手の一番の熱意を感じるときって。まるでウィンブルドンの決勝戦のようにジリジリと、確実に球を打ち返そうと集中されると、何だかこっちが冷めてしまうよね。
それって感謝の本筋から外れている気がしてヤダ。

あーあ、愛は天下の回り物じゃ、ダメなんでしょうかね。


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今泉真子 mako imaizumi
ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️