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「お祭り騒ぎ」は、もうやめたい


「祭り」好きな人がいる。
ええ。私もお祭りは大好きデス。
浴衣を着て、いろんなものを食べながら歩いて、盆踊りをおどって……ではない。ではないのだ。
ここでいう祭りは、「お祭り騒ぎ」の祭り。世の中が、巷が、ワッショイワッショイと大騒ぎになる現象を言っている。「祭り好き」とは、とにかく無責任に大勢を巻き込んで、搔き回す。感情を煽る。そこに底知れる快感を感じる人のことだ。

今でもはっきり覚えているシーンがある。忘れもしない小学校1年生の私。遠足かなにかでクラス単位で電車移動をしていた私たち。
ラッシュアワーを避けたのにもかかわらず、なぜか車内はぎゅうぎゅう詰めだった。想像だが、1年生だから担任の目の届く範囲に無理やり固めて乗せたのかもしれない。
そのとき、ガタンと電車が揺れた。小さな子どもたち全員が右に傾いた。
「きゃー」という叫び声。私は興奮に包まれた。……おもしろい!
「きゃー」と私は言いながら、左に体重を思いっきり預けた。
「きゃー」とみんなも左に倒れる。どこか楽しげな空気。
「きゃー」と言いながら私は今度は前に。
「きゃー」とみんなも笑いながら倒れる。……快感!
まぁ、電車は最初の一度以外は揺れてもいないのだから、先生もこの騒ぎはおかしいと思ったろう。6歳児の浅はかな目論見はすぐに看破され「今泉さん!」と、担任の先生にキッと睨まれた。あの瞬間は今でも覚えている。あ……と私は自分を恥じ、その場で硬直した。

私は震源地となって周囲を巻き込んでいるのを楽しみ、かつ混乱を味わっていた。先生に見つかったあのとき、私はそんな自分を客観的に知ったのだ。
あれは「祭り」だった。
なんなら自分が、だんじり祭の山車(だし)の上に乗って「そーりゃそーりゃ」「ドンドン」と掛け声をかけていたのだ。ときには大うちわを持って周囲をあおいでいたりしたわけだ。


話は飛ぶが、私はこの前テレビで写真週刊誌の記者たち数人が、インタビューを受けているのを目にした。
彼らは「不倫などを報じて、その芸能人やスポーツ選手の家庭が崩壊することに疑問はないのか」と問われていた。すると記者たちは、
「家庭が崩壊するのは望んでいない。けれども、悪いものは悪いから社会に向かって報じる」
「その後、家庭が崩壊するなどは、自分の知ったことではない。関係ない」
「そうしたニュースの需要があるから報じている」などと答えていた。
そして、しれっと最後に放ったのがコレ。
「自分がスクープした記事で、日本中が賑わうのは正直、嬉しい」
そのときの、目を見開いて、過去の自分のお手柄を反芻している顔といったら!
そりゃあ、そりゃあね。アンタ、楽しかろうよ。山車の上で大うちわをあおいでいたら。
彼らはこの快感を味わうために、この厳しいゴシップ記者を続けているのではないか、とすら思う。そうだとしたらちょっと合点がいく。影の火付け役として、国民が沸き立っていく様子に全身が震えているのではないか。

踊る阿呆に見る阿呆。祭りというのはみんなのもので、誰かが主役というわけではないのだが、確かに中心というものはある。山車だったり、神輿だったり、櫓(やぐら)だったり。ワッショイワッショイと煽るだけ煽って焚きつけるだけ焚き付けて、自分の太鼓の音に合わせてみんなが踊ったりしているのを見て、さらに自分の血を沸かせるというベストポジションがあるのだ。

もちろん、この記者たちだけが責めを負うべきではないと思う。
むしろそれを出版している版元、その前に編集長。テレビならテレビ局、プロデューサーにも大きな責任はある。
この人たちは名前を出しているわけだが、そこまでリスクを負って、異常な祭りに乗っかっている旨味は何だろうか。彼らはどこを向いているのか。
発行部数。あるいは視聴率。それが収益につながる。昇進につながる。さらには祭りの櫓に乗っかって、騒動を牽引しているという快楽である。
すべて内向きの欲望であり、己の利益だ。

報じることで社会的にどう影響するのだとかの責任もなければ、これは誰かを傷つけてしまわないかなどといった相手への敬意はない。配慮すらない。
今回の新潮社の件もそうだ。編集長は炎上商法で話題性を求めていた。そして部数を。LGBTの人たちへのリスペクトなど、知ったことではないのだ。
無責任にクラスメートをドミノ倒ししようとした、小学生の私と何ら変わらない。小学生の私には、級友が押しつぶされて怪我をする可能性などみじんも想像しなかった。ほかの乗客への配慮もなかった。
しかし大人なら、社会人なら、マスコミ人なら、想像しようよ!
「自分の知ったことではない。関係ない」などとは、口にすべきではないのだ。自動車会社だって、家電会社だって「売った後のことは知らない」などとは言わない。火を吹いた、怪我をした。ちゃんとその後、企業は社会的責任を負うのである。
想像することも責任も負わないのなら、この業界から足を洗ったほうがいいのではないか。

なんの責任もなく、ただ部数を求めるためにイタズラに情報を乱発しようとする編集部からは、私は手を引かざるをえなかったし、実際に引いてきた。とてもしんどい作業だが、魂を売るわけにはいかないのだ。
(ちなみにフリーランスだからできたのではない。社員のときもやった)

これはマスコミに限らないのだが、すべての仕事は「社会に対する愛の表現」である、と思っている。
ときには愛をもって厳しい内容で社会の逸脱を正したり、非難をするにしても敬意をもって、相手の言い分にも耳を傾けながら言葉を放つ。

しかし、相手がプライドもかなぐり捨てて泣いて詫びを入れるまで、あるいは社会的に抹殺されるまで、非難の手を止めない今の報道は、無責任な人たちがサンドバッグを破けるまで叩いているのと同じである。そのサウンドバッグは砂ではない、血の通った人間なのだ、と言う想像力もないままに。
とくにテレビは煽るだけ煽って、引き際を知らない。次のビッグニュースが現れるまで垂れ流しであり、ビッグニュース待ちの受け身だ。運だ。報じられている相手が、その間どれだけダメージを受けようが知ったことではないようだ。


モノの大小は違うけれども、巷にもいる。
ご近所や職場、親類間の祭り好き。男女問わず、目を瞑れば浮かぶあの顔、この顔、あのシーン。物事を大きくする人。たいてい噂好きだ。
親類、ママ友、あるいはご近所に広めて、その影の中心にいる自分を楽しんでいる人。もっと大騒ぎにならないかなぁ、そんな願いを込めて話している人。単純に快楽を貪っている人。
それを広げて傷つく子どもはいないのか、傷つく大人はいないのか。そんな悪意を広げることで、のちのちこのコミュニティにどう影響が出るのか考えていないのか。
「本当?」「まさか!?」
人生にはそんなニュースが飛び込んでくる。でも少し踏みとどまって、祭りにしてはならんと、冷静に考える知性が必要なのだと、いつも思う。


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今泉真子 mako imaizumi
ここまで読んでくれただけで、うれしいです! ありがとうございました❤️