「もうええわ」を考える
私は漫才が好きだ。落語も好きだが漫才はもっと好きだ。この記事を書くにあたって漫才のことを色々と調べてみたが、調べれば調べるほど奥が深い。浅学な私が書くべきじゃないのではないかと思い、一度は記事を削除しようとも考えた。それでも公開に踏み切ったのは、今後長くに渡って漫才や伝統芸能、そしてそれに関わる人間の研究をしていきたいと思ったからだ。
漫才(まんざい)は、古来の萬歳を元にし愛知県の尾張万歳の影響を受け、日本の近畿地方で独自に発達したとされる、2人の会話の滑稽な掛け合いの妙などで笑わせる演芸・話芸。
元々は新年を祝うめでたい言葉の掛け合いだったそう。語り役の太夫が歌って踊り、おどけ役の才蔵が鼓で伴奏し滑稽な言葉を入れる。現在のボケとツッコミの起源だ。「笑う門には福来る」ということわざにもある通り、神様へ笑いを捧げていたのだという。それが次第に神様から観客へ向けたものへとなっていったのだろう。
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漫才の締めの「もうええわ」が好きだ。「辞めさせてもらうわ」も良い。
ネタの締めがもうええわじゃない時に、私は消化不良感を覚える。落語の締めが「お後がよろしいようで」であることと同じように漫才の締めは「もうええわ」であって欲しい。
「もうええわ」はめでたしめでたしや大団円とは少し意味合いが違う気がする。必ずしもハッピーエンドでは無いからだ。絵本昔ばなしのようにはいかない。
落語の「お後がよろしいようで」は自分の話面白かったでしょ?後口が良いでしょ?という意味ではなく、「後ろの人の準備が出来ました。私は下がりますので楽しんでいってくださいね。」という心遣いなんだそう。なんてしなやかで美しい言葉なんだろう。
漫才の「もうええわ」も同じような意味合いだと思う。「お前またバカなこと言ってるな、もういいよ。お客さんにいつまでそんな話するんだよ」。落語よりもいささか庶民的で荒々しくはなるが、慎ましく去っていく姿に日本人らしさを感じる。漫才の終わりがスタンディングオベーションでなくて良かった。
明日は年に一度のM-1グランプリ。どんな「もうええわ」を聞けるのか、楽しみで仕方がない。
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