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希死念慮と言うなかれ
希死念慮、平たくいうと死にたいという感情は精神医療の現場で広く見受けられるものだ。私にもある、と言いたいところだが、そういい切るには些かどこかに違和感がある。
希死というくらいなのだから死を望んでいるわけだが、死を望むにはまずもって現状が生でなければならない。他人の希死念慮を経験したことがないから確実なことは言えないが、少なくとも今ある生にとどめを刺して楽になりたいというのが目的となる感情なはずだ。
だとしたら、私の希死念慮は前提から異なる。なぜなら私には生の実感がない。離人的な感覚が常に…とまではいかないが日常を送る上でかなりあり、そのため自分の人生がまるでテレビ越しの映像のように感じる瞬間さえある。
さっきと同じく、やはり他人の感覚を知らないので憶測だが、少なくともテレビ越しの他人事のような感覚で生きている人は健常な人にはそうそう多くないであろう。
そんな生がない人間が持つ希死念慮に近い感情は「消えたい」が最も近いと思うのだ。
生がないのに実態はどうやらあるらしいこの不可思議な状態への拭いようのない違和感に対して、自分を殺すという物質的な気配を漂わせる手段がいまいちピンとこない。生きている感じはしないが存在はしているらしいという、ある種の現象的なこの人生への拒絶として「消えたい」のだ。消えればその奇妙な状態が解消されるものね。
もちろんその解消に際して物質的な対処をするという点ではもちろん自殺なのだが、殺すのはそれまで生きていた自分ではない。やはりどちらかというと現象としての私なのだ。確固たる生の実感がないため、確固たる私もない。ただ生じる不思議な連続的現象を止めるだけなのだ。
自分の人生に、感覚に、考えに、全ての責任を持てない。これは想像以上に歯痒く、惨めな気分になるものだ。私の場合、徐々にこの状態へ移行していった。幸いまだ、彼女とのやりとりや本当に好きな音楽に対しては心がまだ動く。
だがその他の趣味に対してはほぼ感触を得られなくなった。恐ろしいことに、音楽に対してもそれが進行しつつある。まったく、やってらんないね。
ざっくりと希死念慮と消えたいという気持ちの違いを書いた。ある種、中年クライシス的な内容も含まれているのかななどと浅学ながら思ったりもしたが、私がそうであるように年齢は関係がないのだろう。そして、これが可逆的なのか不可逆的なのかは全く分からない。希望は持ちたいが、年々悪化しているので難しいものだ。
消えたいとはつまるところ面倒くさいからどうでもいいと言い切ってもそこまで乱暴なものではないのかもしれない。
そりゃあわけがわからない上に実感もないのならそのような態度になるのも致し方ないのではなかろうか。「でもやるんだよ!」などと古き良きサブカルは露悪趣味の隙間から熱のある言葉を投げつけるかもしれないが、それにしては平均寿命まで長過ぎるのだ。「でもやるんだよ!」が通用するのはそれを「やっている」間はせめて実感(この際不快感でもいい)があるものだけだ。
一応言っておくが自ら死にも消えもするつもりはない。仮に何が起きても漠然とした存在を見届ける確たるメタ存在として、夜中にぼーっと眺めるテレビのように、私は私の人生を。そして消える瞬間、舌打ちをするのだ。